〜うたかたの天使たち〜
気恵編+α

真夏の五芒星

−気恵−

 翌日は図書館が休館日だったので、家で勉強することにしていた。しかし、その日は朝からの猛暑がほんと、ものすごかったりした。なにもしないのに汗が噴き出してくるのだ。

 年少組たちはもうパンいちである。美耶子や珠子はまあいいとして、苑子とかは歩くとぷるぷる揺れるくらいあるので、ちょっぴり目の毒だ。

 おおらかな一子ちゃんもさすがにマズイと思ったのか、年少組を連れて区民プールへ出掛けることにしたようだ。うう、かなりついていきたい気分。

 ついていかない! 気恵くんと勉強だ!

 プールについていく! 気恵など知らんっ!


「いいよ、べつについて行っても」

 気恵くんが汗の粒を鼻の頭に浮かべながら、口調だけは冷たく言った。そんな言われかたをしたら、「わーい、プールだぁ」とかはしゃげないではないか。

 しかたなく、しぶしぶ、いやいや、勉強を開始する。一子ちゃんたちはプールに出掛けてしまったので、広い宇多方家にはいまはおれと気恵くんのふたりきりだ。とはいえ、あまりの暑さにセクハラする気も起きない。

 気恵くんのほうも今日はガードがゆるい。とにかく暑いので、タンクトップにショートパンツという肌露出の極端に多い格好になっている。こうやってみると、肌は小麦色だし、脚はすらりとして長いし、水着を着せたらかなりいいセンいきそうだ。

 勉強を開始して一時間。風もぱったりとやみ、室温も三十度を軽く超えた。問題集に汗がしたたり落ちるくらいの悪環境。おれはついに音をあげた。自慢じゃないが、おれは根性のないほうだ。

「ぐはあああっ! もうだめだっ!」

 おれは気恵くんを置き去りにして、風呂場に走った。浴槽に水を張る。プールに行けなかったぶん、水風呂で涼をとろうと考えたのだ。

 手っ取り早さからいえば冷水シャワーを浴びればよいのだが、やはりプールに対抗したい。今頃は一子ちゃんや年少組たちはプールサイドでかき氷とか食ってる頃かもしれないし!

 栓を全開にしたおかげで、ほどなく水風呂は完成した。

 おれは服を脱ぎ、準備運動をしてから――水風呂で心臓マヒを起こしたらさすがにちょっとかっこわるいし――ざぶんと浴槽に飛びこんだ。

 うひゃああああ、ひやっこい!

 さすがに泳ぐことはできないが、気分はけっこうプールな感じだ。試しにもぐってみる。ぐわば、ごば、ぐぉば。

 と――脱衣所に人の気配がした。

 戸が叩かれる。

「あいてるよ」

 おれは返答する。

 おそるおそるという感じでガラスの引き戸が開いて、気恵くんが顔をのぞかせる。汗をいっぱいかいていて、顔も赤い。熱射病寸前といった風情だ。

「あの……さ」

「なんだ?」

「わたしも入っていい?」

「いいともさ、って――ええええーっ!?」

 おれは仰天した。うれしい誤算というか、千載一遇のチャンスというか。

 勝手にゆるんでしまう顔をなんとか引き締めながら、おれは答える。

「――べつに、おれはいいけど?」

「じゃあ、遠慮なく入らせてもらう。暑くて死にそう」

 気恵くんが浴室に入ってくる。おれはキャーと叫びつつ、目を覆う準備をする。だが。

 気恵くんは水着を装着していた。学校指定のものだろう、紺のスクール水着だ。

 ちぇっ、なーんだ。

 さらに気恵くんは手にしていたものをおれに投げてよこした。

「あんたもそれ、はいてよ」

 広げてみると男ものの水泳パンツだった。父親のものか、それともじいさんのものか――いや、じいさんのだったらフンドシだろう、きっと。

「フルチンのほうが涼しいのになあ」

「ばか! そんなのブラブラさせてるやつと一緒に入れないだろ!」

 おれはやむなく水泳パンツを穿いた。浴槽のなかでこういうのをはくのって、けっこう難しいんだな……。

 おれがパンツを着けたのを確認して、ほっとしたように気恵くんは浴槽に手をかける。まあ、いくら暑さに耐えかねたとはいえ、こんなふうに一緒に浴槽に入ってくれるというのは、コミュニケーション的には大進歩だな。

 ふつう、この年頃の女の子は潔癖だから、こういう接触は極力避けようとするはずだ。なにしろ、オヤジのパンツと自分の下着が一緒に洗濯機に入れられることにすら嫌悪感を抱く子がいるほどだ。そういう意味では、もしかしたら一子ちゃんが言ってたとおり、気恵くんは意外に男好き――もとい、男性と一緒にいることにあまり抵抗を感じないタイプなのかもしれない。

 気恵くんが浴槽に身体を沈めていく。その分の水が浴槽のふちをこえてあふれ出す。

「つ、め、たぁい」

 気恵くんがいつもより高いトーンの声を放つ。

 宇多方家の浴槽は檜づくりで、一般サイズよりは大きめだ。だから二人が入ってもぴったり密着、ということにはならない。すわっているおれのつまさきが、しゃがんでいる気恵くんのおしりに、ことによったら当たるかも、というくらいの位置関係だ。

 それでも、冷たい水を通じて、相手の体温の雰囲気を感じることはできる。

 おれはちょっといたずら心をもよおして、気恵くんの顔に水鉄砲で水流を浴びせかけた。

「きゃっ!」

 声をあげて気恵くんはよける。次の瞬間、眉をつりあげて怒鳴りつけてくる。

「なにするんだ、びっくりするだろ!」

 前半と後半でえらくリアクションがちがうなあ。なんだか、無理に怒っているみたいな感じがする。おれは「しつこい人って最低!」となじられて過去何度も振られた経験を活かして、ねちっこく水をかけつづける。

「もうっ! いいかげんにしろっ!」

 ばしゃばしゃと気恵くんが水をかけかえす。さすが体育会系、すごい水圧の仕返しだ。おれの鼻とか耳とかに水が入りまくりだ。

「どうだ、思い知ったか!」

 勝ち誇る中学二年生に対し、おれは潜水作戦で反撃を開始する。浴槽に頭まで沈みこみ、腕を伸ばしてスクール水着の胴体をくすぐる。

「うわっ! ばかっ! やめろっ!」

 気恵くんは身体をよじっておれから逃げようとする。といっても、浴槽のサイズは限られている。逃げ切れるわけはない。水中で白い腿がひらめいた。

 ぼぐ。

 膝が見事に鼻柱にヒット。

 おれは半ば気を失い、水を飲みながら浴槽の底に着床する。

「わ、わわわっ! だ、大丈夫か!?」

 あわてた様子の気恵くんがおれの髪をつかむ。かなり荒っぽくではあるが、水上へ顔を引っ張り出してくれた。

「ぐわは、ごへ、ぷご」

 浴槽のふちにもたれかかり、おれは水を吐き出した。気恵くんの手が背中をさすっている。

「げへげへ……ああ、ひどい目にあった」

「ごめん……でも、遊一がへんなことするから、悪いんだぞ」

 唇をとがらせて言う。おれは可笑しくなってくすくす笑った。

「な、なんだよ」

「いや、初めてだなって思ってさ。おれを名前で呼んでくれたの」

 気恵くんは明らかに動揺したようだ。自分の唇を手でおさえる。

「え? そ、そうだっけ?」

「そうだよ。いつもは、あんた、とか、おまえ、とか、よそ者、とか、ペド野郎とか」

「う……」

 ばつが悪そうに気恵くんは視線をそらした。

「わ、悪かったよ……でもさ、遊一だって悪い」

「おれが?」

「そうだよ。いったいだれが好きなんだよ。姉貴のことが好きなんだったら……お、応援するけどさ。苑子とか珠子とかにはちょっかいだすなよな」

 微妙に美耶子の名前が抜けているが、まあ気にしないことにしよう。

「応援してくれるって、それじゃまるでおれと一子ちゃんがつきあおうとしているみたいじゃないか」

「だって……」

 気恵くんは顔をあげた。頬が赤くなっている。

「お風呂に一緒に入るなんて、普通の関係じゃないだろ?」

「でも、気恵ともこうして一緒にお風呂に入ってるけど」

「こ、これはちがうだろ!」

 がばっ、と立ちあがる。水に濡れたスクール水着が気恵くんのスレンダーな身体にぴったりはりついている。生地が薄い競泳タイプなのか、胸のふくらみの先端がポチッと浮き出ている。つい、その部分を凝視してしまう。

「み、見るなよ」

 胸元を手で覆いながら、また浴槽に身体を沈める。

「まあ、そうカッカするなよ。せっかくの水風呂がぬるくなっちまう」

「怒らせているのは遊一のほうだろ!」

 頬をふくらませて気恵くんはそっぽを向く。

「一子ちゃんのことだけどさ――」

 おれは、顔をそむけている気恵くんの、形のきれいな耳にささやきかける。

「心配してたぜ、気恵の進路のこと」

 ぴくり、気恵くんの耳が動いたような気がする。錯覚だろうけど。

「藤橘女学館にこだわる必要はないって。一子ちゃんが高校に進めなかったからって、それを重荷に感じて自分の進みたい道をあきらめることだけはしてほしくないってさ」

「姉貴は……やさしいから……」

 気恵くんがぽつりと言った。

「いっつもそうなんだ。要領わるくてさ。進学しようと思えばできたのに、よその家に苑子たちを預けたりして、寂しい想いをさせたくないからって……」

 言葉の終わりは水音にまぎれてよく聞えなかった。気恵くんの顔が半分まで水にもぐっている。

 一瞬水面下に頭が消えた。再びあがってきた気恵くんの目許からは滴が落ちていた。あーあ、水にもぐるから、まるで泣いたみたいじゃないか。