「どういうつもりよ、あんた」
気恵くんが椅子に座ったままおれを睨みつけている。
「どういうつもりもなにも、一子ちゃんに頼まれたんだ」
おれはそう答えるしかない。
「わたしは要らないって言ったでしょ。さっさと部屋から出てってよ」
気恵くんがふすまを指さす。英語で言えば、ゲラーウロヒヤみたいな感じかも。
だいたい、部屋に入れたのが奇跡に近い。気恵くんが机にむかって集中している隙をついたのだ。
はっきり言って、この部屋に入ったのは初めてだったりする。
財宝ハンターとして、宇多方家のあらゆる場所を探索してきたおれだったが、ここだけは鬼門だったのだ。
NBAのバスケットプレイヤーや、どうやら海外のプロレスラーらしいポスターが目立つ男の子っぽい部屋だ。本棚もバスケ関連雑誌や格闘技系雑誌が多い。
「早く出てって!」
気恵くんの声のトーンが高くなる。
やれやれ、だ。
「そんなにおれのことが気に入らないのか」
おれはうんざりしつつ質問した。
「当然よ! 決まってるじゃない!」
「なぜだ? おれがお前になにかしたか?」
「い、妹たちと、べたべたしてるしっ。あ、姉貴ともっ」
気恵くんの顔がちょっと赤くなる。怒りのためか――それとも羞恥か。
「お風呂に一緒に入ったことがあるだろっ! この変態っ!」
「あれは一子ちゃんに背中を流してもらっただけだ」
うそだけど。
「苑子や美耶子に……いたずらしてるじゃないかっ!」
「相手は子供だろ。子供の遊びにつきあってやってるだけじゃないか」
そうとも言い切れないけど。
「それにさ」
おれは言葉を続ける。
「苑子や美耶子、珠子だって、遊びだとわかっているから平気でおれにじゃれついてくるんだろ? やましい気持ちがおれにあったとしたら、そんなふうになるか?」
「うっ……」
気恵くんが詰まる。ふふん、しょせんは中坊だなあ、おれさまの大人らしい堂々とした反論にぐうのねも出ないぞ。
「まあ、そういうことが気になる年頃なんだろうけど、変に気を回しすぎるのはよくないぜ。ましてや、それを理由にして、勉強から逃げるのは狡いんじゃないか?」
「逃げてなんかない! ちゃんと勉強してるよ!」
気恵くんタイプには「狡い」とか「逃げ」とかのキーワードが効くみたいだな。予想通りだ。
「一子ちゃんに聞いたぜ。成績が上がらないらしいじゃないか。次の模試が悪かったら、志望先も考え直さなきゃならないんじゃないか?」
「くっ」
「それに、わからないところがあっても、一子ちゃんに教わろうとしないそうだな? 一子ちゃんは自分が学校に行ってないからって言ってたけど、そうなのか?」
気恵くんの顔がゆがむ。む。目が光ってるぞ。涙か?
「うるさいっ! そんなんじゃないっ!」
持っていたシャーペンを投げつけてくる。ぶねっ!
「とにかくっ! おれは一子ちゃんに頼まれたんだ。今日から一週間、みっちりやるからな!」
「だまれっ! でてけっ! ばかっ!」
消しゴム、ノート、定規、いろいろ飛んできた。
さすがにぶあつい参考書が飛んでくると、身の危険を感じて後退った。と、気恵くんに胸を突かれて、思わず廊下に出てしまった。びしゃん、ふすまが閉ざされる。
さすがにおれも頭に血がのぼる。
「みんな心配してるってのに、そういう態度かよ! そんなんじゃどこにも受からねーぞ!」
どすどすと廊下を踏み鳴らしながらおれはその場を立ち去った。
縁側から庭を見ると、一子ちゃんが洗濯物をとりこんでいるところだった。
ぽわーとしている子だが、よく考えると朝からずっと働きづめだ。一日三度の食事の支度、広い屋敷と庭の掃除に家族全員分の洗濯。彼女には夏休みなんかないのだ。
なんだか一子ちゃんが際限なく偉い子のように思えてきた。
おれが見ているのに気づいたらしく、一子ちゃんが手を振って見せる。次の瞬間、物干し竿が落ちて洗濯物が地面に叩きつけられた。
こういう子なのだ。
夕食のとき、気恵くんは姿を見せなかった。
今までは気恵くんもおれと同じ食卓について食事していたのだが、戦争状態になってしまったのだから、これもやむを得ないかもしれない。
ふだんならずっと茶の間でごろごろするのが日課なのだが、それでは気恵くんも出てきにくいだろうから、おれは早めに自室にさがった。おれっていいヤツだなあ。
といって、部屋にもどってもテレビがあるわけでもないし、寝るにも早い。
しょうがないから秘匿しているエロ本を取り出してオナニーを始めた。大胆なことに窓はフルオープンだ。見るなら見やがれ! というのはうそで、どうせ窓の外は宇多方家の裏庭なので、覗かれる心配はないのだ。それに、いまは年少組はテレビに夢中なので、おれにちょっかいを出してくる心配はないし。
ああ、ひさしぶりだなあ。
ものすごく立派なおっぱいをお持ちのギャルの写真を見ながら、おれは自分の分身を握りしめ、摩擦による刺激を与えはじめた。
なんで、これをしこしこするって言うんだろうかなあ、と考えたりする。擬音として果たして妥当なんだろうか。握って擦っていろわけだから、ゴシゴシかもしれないが、それだとなんか痛そうだし、しこしこでいいのかもしれないなあ、と思いつつ、そろそろ出そうだぞ……っ!
その時だ。
おれの部屋のふすまがノックされた。
げえっ、この瞬間にですか?
締まれ締まれMY括約筋。
『ちょっと……いいかな』
控えめな声がした。
うぎぎぎぎ。気恵くんか!?
『あけるよ』
ちょっと待てっ!
おれは声もあげられず、下半身に力をこめつつ、パンツとズボンをひっぱりあげる。
と同時に、ふすまが開く。
びくぅっ!
「あのさ……」
気恵くんが立っている。顔を伏せているのは視線をおれと合わせたくないからか。
もっとも、おれ自身、実は天井を仰いでたりするんだがな、びくびくびくぅっ!
「さっきの話だけど……」
言いづらそうに気恵くんが口ごもる。
「おそわってやっても……いい」
はあ……えがっだ。
おれは虚脱していた。もうなんていうか、すごい解放感だ。何日かぶりの放出だからなあ。
「やっぱり、怒ってるのか、さっきの――」
「へ?」
おれは顔をもどした。いやあ、なんちゅーか、パンツのなかにすごい量の精液もらしてしまって、それどころじゃないんですけど。
気恵くんがすごい顔をしていた。こんな表情は見たことがない。思い詰めたというか、つつけば泣くか怒鳴るかどっちかわからないというか、とにかく、すごく真剣なのは確かみたいだ、ああ股間が気持ち悪いなあ。
「さっきのことはあやまる」
気恵くんがさっと頭をさげる。
「だから、勉強を教えてくれ」
なんとまあ素直な。意外な展開だぞ、これは、と正気にもどりつつあるおれは考える。にしても、パンツの洗濯どうしよう。
ともかくも、気恵くんに返事をしなくてはなるまい。
「それは、かまわないけど……」
「そうか!」
気恵くんが顔をぱっとあげる。
「なら、すぐに始めよう。時間が惜しいんだ」
えっ、いますぐですか?
まじ?
その日から、おれと気恵くんの勉強づけの日々が始まった。
日中は家では暑いから、図書館に行った。
夕方、家に帰ると、気恵くんの部屋でまた勉強だ。
一子ちゃんが言い含めているのか、美耶子たち年少組もおれにちょっかいをかけてこない。おかげでずいぶん身辺が静かになった。
意外なことに――というとアレだが、気恵くんの理解度は悪くなかった。前回の模試の結果が信じられないほどだ。
「なんだよ、できてるじゃないか」
試しにやらせてみた問題集の採点をしながら、おれが言うと、
「だから、ちゃんと勉強してるって言ったろ」
と、気恵くんは唇をとがらせる。
「じゃあ、なんで、模試の結果が悪かったんだ? まさか、わざと間違えたとかじゃないだろうな」
「そ、そんなこと……するわけないだろ。模試だって、ただじゃないんだし」
気恵くんはぷいと顔をそむける。
「怪しいな……。ほんとうにこの学校、藤橘女学館だっけ――志望しているのか?」
「してるよ! あたしは藤橘に入んなきゃいけないんだから!」
いつもそんな感じだ。進路について話していると、気恵くんは逆切れしてしまう。
「すみません、遊一さん……お世話をおかけします」
その日の勉強を終えて、茶の間にもどってきたおれを、一子ちゃんが冷たい麦茶でもてなしてくれた。
「いや……気恵くん、出来るから、問題はないよ」
おれは別におせじではなくそう答えた。
「でも、志望校については何なのかな……もしかしたら、ほかに行きたいところがあるのかもしれない」
おれの言葉に一子ちゃんの表情がすこし曇った。
「なにか……言ってましたか?」
その口調にひっかかるものを感じておれは逆に訊く。
「心当たりでもあるの?」
すると一子ちゃんは少し口ごもった。
「その……藤橘女学館って、わたしが入学するはずの学校だったんです。でも、祖父の容態が急変して……」
「うん……」
おれは相槌をうちながら一子ちゃんの表情をうかがった。宇多方のじいさんの死のいきさつについては、おれから訊くことは避けていた。一子ちゃんたちの心の整理がどこまでついているかわからなかったからだ。だが、一子ちゃんの表情は平静で、すでに折り合いをつけているように見えた。
「――それで、進学はとりやめたんですが、どうも気恵がそれを気にしているようなんです」
「つまり……一子ちゃんのかわりに藤橘に入学しようと?」
「かも、しれません。でも、あの子には自分の行きたい道を選んでほしいんです。じつは……遊一さんに気恵のことをお願いしたのも、そのことがちょっと頭にあって」
「て、ゆーと?」
「あの子、わたしに気をつかっているんだと思うんです。でも、遊一さんになら、きっと自分の本当の気持ちを打ち明けるんじゃないかと」
一子ちゃんの言葉におれはちょっととまどう。
「いや……気恵くんはおれのことを嫌っているみたいだから、それはむりだよ」
「そんなことはありません」
一子ちゃんは微笑んだ。
「気恵は、もともとすごいお父さん子だったんです。それに祖父にもよくなついてましたし。男性がすきなんでしょうね。えーと、こういうのを『男好き』と言うんでしたっけ?」
言いません。
「まあ、とにかく、やるだけはやってみるよ。乗りかかった船だし」
「よろしくお願いします」
一子ちゃんは三つ指をついて頭をさげた。