偉大なる助平FF(20)
好男は肌にあたるシーツの感触で目が覚めた。
目をあけると、そこは見なれた自分の部屋だ。布団にくるまっている。
窓からさしこむ光は透明度の高い朝のものだ。
「あれ……?」
起き直って目覚まし時計を見ると、七時半。
「おれ……なんで……」
「おにーちゃん、朝だよー」
ドアが開いて沙世が顔をのぞかせる。その目が驚いたようにまるくなる。
「めずらしい――もう起きてる」
「沙世……」
好男は妹をしげしげと見た。寝巻きがわりのぶかぶかTシャツ姿である。
「沙世――だよな」
「はぁ?」
沙世はあからさまに訝しそうな顔になる。
「アタマだいじょーぶ? おにーちゃん」
「あのさ――昨日だけどさ――」
好男はおそるおそる訊ねようとする。なにか、へんなことが身に起きなかったか、どうか。
すると、沙世はバツの悪そうな表情になった。
「あ、まだ怒ってるんだ? そりゃーたしかにおにーちゃんをほっといて、おとうさんたちとゴハン食べに行ったのは悪かったと思うよ。でも、わたしはいちおう反対したんだからね」
「おやじたちとメシを――?」
「あれ? 話さなかった? わたしと、おとーさんと、真由美ちゃんと、あと静香先生だっけ――おにーちゃんの担任の――も入れて、みんなでファミレスに行ったって」
「真由美に――静香先生が――?」
「そうだよ。それでおとーさんったら、静香先生さそって飲みに行っちゃってさ。朝になっても帰ってこないんだよ? ひどい不良おやじだよね。ま、いつものことだけど」
沙世の話に好男は茫然とする。それから、せきこむように質問する。
「ま、真由美は?」
すると、沙世はニヤニヤ笑いを口許に浮かべた。
「気になるんだ? やっぱりおにーちゃん、早く告白したほうがいいって。だれかに取られてからじゃ遅いよ」
「うるさいな! 質問に答えろよ」
「もちろん、一緒に帰ったにきまってんじゃん。おとーさんがクルマを乗ってっちゃったから、タクシーひろってさ」
沙世の答えに好男の身体の力がぬける。
「そうか……」
「へんなの。朝ゴハンの支度したから、早く着替えてね。わたしも早く後片づけして学校行きたいし――」
沙世の言葉に好男はのろのろと支度をはじめる。いつも通りの一日のはじまりだ。
すべては夢――だったのだろうか?
通学路を歩きながら、好男はまだぼんやりとしていた。
沙世の様子になんの異常もなかった。ふだんとかわりない明るさで、ランドセルを背負って飛び出していった。ただ、少し内股ぎみなのが気になったが――
そもそも好男の身に起きたことだって怪しすぎる。美琴があんなふうに振る舞うなんてありえないし、朱理――だっけ――だって、あまりに好男にとって都合がよすぎる。だいたいにして、異次元からの転校生? 女の子をいいなりにする不思議な道具? 長い長い夢を見ていたのではないと、どうして言い切れる?
「おはよう」
背後から呼びかけられて好男はどきっとする。
ふりかえると美琴だ。ふわふわの髪が朝の陽射しに輝いている。
「お……おう」
顔をあわせるのが照れくさくて好男は目をそむけた。
「どうしたの?」
「あ……いや……そのな……」
「ん?」
目を軽く見開いて覗きこんでくる。とても昨日の乱れようをうかがわせない。
「昨日の――ことだけど」
「昨日? 先生に頼まれて、助平さんちに行ったこと? 残念だったね。もう引っ越してたなんて」
「引っ越しって――」
「助平さんは引っ越してたじゃない。転校してきてから、ほとんど学校に来ていなかったから、どんな人だったのか思い出せないくらいだけど……」
「おい! それって……」
好男は驚いて美琴を見かえす。美琴は逆に不思議そうに好男を見つめかえした。
「どうしたの、好男くん?」
美琴は記憶を失ったのか? いや、やっぱり、もともとすべては好男の願望まじりの夢にすぎなかったのではないのか。
だが――だとすれば、なにか変だ。
「おはよ」
聞き慣れた声が横手から飛びこんでくる。好男の心臓がはねあがる。激しく鼓動をうちはじめる。
「あ、真由美ちゃん、おはよう」
制服姿にスポーツバッグを手にした真由美は、さも変わったものを発見したかのような表情を浮かべて好男と美琴を見る。
「こりゃまた変わったツーショットね。不釣り合いっていうか、美少女とダメ男コンビ」
それから真由美は美琴に向かって片手でおがむポーズをする。
「美琴ごめんね、昨日、助平くんちに行けなくてさ。ちょっとクラブの練習抜けられなくなっちゃって……」
「それならしょうがないよ」
美琴は屈託なく微笑むが、好男はそれどころではない。
「おい、その練習って――なんの練習だったんだ?」
びっくりしたように美琴が好男を見て言う。
「そんなの――柔道にきまってるじゃない」
「そ、そうよ、当たり前でしょ。バッカじゃないの!?」
真由美も口を揃える――が、声がうわずっている。頬に朱がのぼっていく。
「練習のあと、沙世たちとメシを食いに行ったって、ホントか?」
一瞬の間。
「え? あ、ああ――そうよ」
「どこに食いに行ったんだ?」
「なんで、そんなに根掘り葉掘り訊くわけ!? あんたには関係ないでしょうが!」
真由美はぷいとそっぽを向き、早足で歩きだす。
たしかにそうだ。それに、沙世の話と矛盾がないかどうか聞き出そうとすること自体、好男にとっては神経がよじれそうなくらいの苦行なのだ。
美琴は好男と真由美の間を立ち位置にして、困ったように顔を動かしている。
そのまま、会話がとだえた。
学校がじょじょに近づいてきて、同じ制服の生徒が増えてくる。両脇に緑の残された一本道だ。
と――好男は真由美の様子がおかしいのに気がついた。
妙にスカートを気にしている。ちょっとでもすそがめくれるとあわてて手でおさえている。まわりの視線も必要以上に気にしている――ように感じられる。
どうしたんだ――と声をかけようとしたとき――ぶあつい身体が行く手をはばんだ。
巨漢だ。襟章からすれば一年生らしいが、あたりを圧倒する体格だ。
真由美の表情がこわばる。
いかつい顔を歪めながら、一年生が野太い声をだした。
「よお、真由美じゃねえか」
「……金原くん」
「朝っぱらから悪いんだけどよぉ、ちょっくら乱取りの相手をしてもらおうと思ってよぉ――センパイたちも待ってるんだぜぇ」
あごをしゃくったあたりに、どうやら柔道部の男子部員たちがたむろっている。皆いちようにニタニタ笑いを顔に貼りつけている。
「今日は朝練の予定はないはず、でしょ……」
「かてえこと言うなよぉ、おれと真由美ちゃんの仲だろぉ?」
大きな手で真由美の肩をつかんで引き寄せる。真由美はされるがままになっている。
金原はなれなれしく肩を撫でまわしている。
好男の脳裏に恐ろしい想像がひろがっていく。まさか――こいつらに――
真由美と目が合った。
一瞬のうちに真由美の心の揺らぎが伝わる。おびえ、後悔、羞恥――あきらめ――
金原の手を真由美は取り、自分から胸のふくらみに近づけていく。金原のニヤニヤ笑いがいっそうだらしなくなって――
真由美の身体が消えた。
次の刹那、金原の肥大した身体が孤を描いていた。真由美のスカートがめくれあがり、しなやかな筋肉が躍動する太股が見えた。
「あっ」
好男はスカートの中を見て声をあげた。
みしっ、と音をたてて、金原の身体が路面にめりこむ――くらいに叩きつけられる。
かろうじて受け身は取っているようだが、それでも半ば悶絶状態だ。
真由美はさっと髪を払った。
「それが下級生が上級生にものを頼む態度? そんなに稽古をつけてほしかったら、放課後、みっちりつけてあげるわよ。それとも、今、ここでがお望み?」
路面に叩きつけられた金原の表情は痛みに歪み、さらに周囲の視線――くすくす笑う女生徒たちの――によって無残なまでに変形した。
「てめえっ……! おれにこんなことして、ただですむと思ってるのか!? 昨日のこと、ばらすぞっ!」
吠える金原を真由美は見下ろして、冷たく言い放つ。
「勝手にすればいいでしょ」
「お、おまえっ……きの……っ……お? あれ? きの……あれ?」
金原の顔から傲岸なものが消えた。惚けたように、周囲を見渡す。声が消え入るように小さくなる。
「す、すみません、大河原センパイ――おれ、いったい……? す、すみませんっ!」
大きな身体をちぢこませるようにして立ちあがり、ぺこぺこしながら後退りしていく。柔道部員たちもなにが起こったのかわからないようにたがいに顔を見あわせ、それからそそくさと校門のほうへ逃げていく。
「まったく……」
真由美は投げすてたスポーツバッグを拾いあげながら、じろり、植え込みの方に目をやる。
「そこっ!」
せっかく拾ったバッグを植え込みに投げつける。
「ひえっ!」
茂みのなかから転げだしてきたのは、ビデオカメラを手にした長崎だ。
「なに撮ってたのかなあ?」
真由美が目を細める。
長崎は真っ青になる。なにか、大事なことを突然忘れてしまったかのように、口をぱくぱくさせる。
「あっ、いやっ、その……ノーパン……じゃなくて……ああああ!?」
「ああああ、じゃないっ!」
真由美は長崎からビデオカメラを取りあげて、その中のテープを取り出すと路面に落とし、靴で踏みつけた。プラスチックが砕ける音がする。
「ひゃあああっ!」
長崎が悲鳴をあげる。
「こんなところで隠し撮りしてたのが先生に知れたら、あんたたちどうなると思ってるの!?」
あんた「たち」と言いながら、真由美は少し離れた電柱の影にいた、ひょろ長の小出を指差す。小出の顔もおびえに歪んでいる。
「わかったら、とっととテープを出す!」
「はっ、はい……」
小出と長崎はポケットの中のものも含めてデジタルビデオテープをすべて真由美に差し出した。
「でっ、でも、ぼくら、なんでこんなことを――なにを撮ってたかも――憶えていないんですよぉ」
「ぼくたちは善良な特撮ファンなのにぃ……」
泣き声をあげながら、二人は駆け出していく。
美琴は好男の脇を軽く突いた。振り向くと、意味ありげに微笑んでいる。
「未来が――かわったのよ」
「未来が?」
「朱理さんが言ってたでしょ――未来はわたしたちの意志が変えるものだって」
好男の頭のなかに火花が飛んだ。
「――美琴、おまえも記憶が――」
「さあ、どうかしら? 好男くんの経験とわたしの経験、必ずしも同じとは限らないわよ」
美琴が笑いながら、ささやく。
「――ったく」
ふたたびバッグを拾いながら、真由美は呆れはてたように言う。
「男ってのは、どうしようもないわね。甘い顔をするとすぐに調子にのるんだから」
「でも――優しい男の子もいるよ?」
美琴が首を傾げながら――真由美と好男を半分ずつの割合で見ながら言う。
真由美は美琴を見つめかえす。その表情は――そうだ――試合にのぞむ前の真由美の顔だ。いきりたつわけでもなく、好敵手を前にして試合を存分に楽しもうとしている、充実した顔つきだ。
「美琴――強くなったね」
「うん……たぶん」
「水あけられちゃったみたいだけど――参戦していい?」
「もちろん。わたしも、がんばる」
真由美と美琴は強い視線を交わしあう。そのまん中に位置している好男は何が起こっているのか理解できないまま突っ立っている。その腕をぐいと真由美が引っ張る。
「ほらほら、遅刻しちゃうでしょ!」
「そうそう、急ぎましょ」
もう一方の腕を美琴が抱えこんだ。好男はバランスを崩しかける。
「ちょっ……おい!」
「色事くん、よかったじゃない。今朝は両手に華だよ!」
真由美が屈託なく笑いながら走りはじめる。
予鈴が鳴っている。
三人の中学生は、手をたずさえながら、校門に向かってスピードをあげていく。
そうだ。
好男の経験、美琴の経験、そして――真由美の経験。それぞれの過去は、もしかしたら共有できるものではないかもしれない。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
三人は、いま同じ場所にいて、これからの時間をいっしょに生きるのだ。