おれはまゆを抱いたまま、手をさしのべた雪江の脇をすりぬけた。
雪江の顔が引きゆがむ。
「どうしたの? まゆを、まゆを渡してちょうだい」
「そうだ。ばかなことは考えるな。きみにとっても、まゆにとっても、いちばんいい選択をするんだ」
貴之がとどめとばかりに言いつのる。
夫妻が詰め寄ってくる。まゆのことを、おれのことを、心から気遣っているように見える。
「悪いようにはしない。だから」
「お願いよ、まゆを幸せにしたいのなら……!」
おれは彼らの善意を確信した。きっと、この二人ならばまゆを大事にしてくれるだろうと思った。
ほんの一瞬、まよった。
だが、いま、未来への不安に負けて、確実で安易な道をえらんだら、きっと後悔する。
なぜならば、いちばん大事な瞬間に、自分自身の力を信じなかったことになるからだ。それは、自分の人生を売るのにひとしい。
「おれは、まゆと生きたいんです。それだけです」
自分の声のようではなかった。でも、言わねばならなかった。
「正しいことをしているとは思っていません。でも、おれはまゆを愛しています。そして、まゆも同じ気持ちだと信じたい」
「ばかな!」
天野貴之が吐きすてた。
「きみは変態であるばかりではなく、おおたわけのようだな! 子供が恋人だと? 愛しているだと? そんなことが社会に認められると思っているのか? わたしはね、アメリカできみのような変態性欲者から無垢な子供を守る運動をしているんだ。きみたち異常者は、断種をすべきだな!」
「あなた……話せば、きっとわかってもらえるわ。ね、沢さん、まゆはまだ子供だわ。あと十年、わたしたちにまゆをあずけてくださらない? まゆがおとなになったとき、もしもたがいの気持ちがかわらなかったら、その時に結婚すればいいじゃない? ね、あなたは子供のやわらかな心とからだを傷つけているのよ。そのことをわかって!」
雪江は懸命な表情でおれにうったえかけた。それはわかる。おれもそうは思う。だが。
おれは雪江に頭をさげた。
「おっしゃることはわかります。でも、おれは、まゆと別れて生きることはできない。おれ、十年待ちます。そのあいだ、まゆの保護者に徹します。父親としてふるまったっていい。髪がうすくなって、腹がでて、どうしようもないオヤジになったっていい。大人になったまゆに選ばれなくても、それはそれでかまわない。まゆと、暮したいんです」
「――あなた! まゆを不幸にしようとしているのよ!」
「不幸にはしません。まゆには、どんな哀しみも近づけない。守ってみせる。だから、おれは、あなたたちにも負けられないんです」
おれの言葉に、貴之が憤怒の形相になった。
「きさまごとき虫ケラ、どんなふうにも始末できるんだぞ!」
おれの顔に指をつきつける。すでに紳士の仮面をかなぐり捨てている。
「きさまはクビだ! 退職金もなしだ。少女を犯した変質者め! 業界では再就職もできんように手をまわしてやる。たいした技能もないきさまが、この世の中で渡っていけると思うな! アパートだって追い出してやるぞ。もともとうさんくさい噂が流れているんだ。保証人もいないようなきさまに、だれも部屋さえ貸さないぞ!」
おれは無感動な目で貴之のわめきたてるさまを見ていた。
そうなのかもしれない。いや、きっと、そうなるだろう。
社会的な意味で、おれはきっと殺されるのだ。
だが、それによって失うものに、どれほどの価値があるだろう。
さっき、踏切前で電車が走るたびに思ったことに比べれば……
安定した生活、設備が整ったアパート、会社関係の友人とのつきあい、そんなものすべて、ほんとうに大事なものとは比較の対象にもなりはしないのだ。
「神村! 法的措置をとれ! 児童なんとか法ってのがあるだろう!?」
お鉢がまわってきた弁護士は困惑したように顔をゆがませた。笑おうとしているらしい。
「まあまあ、天野さん、ここは穏便にいきましょう。たしかに法に訴えることもできますが、それはまゆチャンの将来にとってよろしくない。警察ざたになりますと、そのう……」
「……神村」
天野の顔が赤くなり、つぎに青くなる。
「この期におよんでおじけづいたか、神村」
「いえいえ、そんな。ただ、女の子ひとりの人生がかかっているんです。それだけじゃない。沢くんも将来有望な若者だし、あなたは名士だ。同様に、わたしにも社会的な立場がある、ということですよ」
弁護士は肩をすくめて見せた。なにかしら、事情があるのだろうか。
「ただ、保護者として沢くんが適当であるかどうかの審判は要求すべきでしょうな。そのへんは、わたしがやりましょう。天野ご夫妻は、そろそろ空港に行かねばならぬのではないですかな?」
貴之は凄まじい視線を弁護士に向けた。殺意すらただよっている。
「――そういうことか。それでわたしを出し抜けたと思うなよ」
「……あなたとはこれからもパートナーとしてやっていきたいと思っていますよ、わたしは」
弁護士が情けなく笑いながら肩をすくめるさまを、貴之はじっと睨みつけていた。が。
「雪江、行くぞ」
「でも、あなた……」
「あきらめたわけじゃない。まゆは、絶対に手に入れる」
言葉の後半はおれに向けられていた。
「どんな手をつかってでも、な」
そして、リムジンに乗りこんでいった。雪江は、名残惜しげな視線をまゆに投げると、夫のあとに続いた。
エンジン音が鳴り響く。リムジンがするすると動きだす。
あっさりと走り去った。
おれは身体から力が抜けていくのを感じた。
まゆを守りぬいたのだ。
職は失うかもしれない。それでも、まゆと一緒にいられるのだ。
ぽんぽん、と肩をたたかれた。弁護士だった。
「これからがたいへんだよ、あんた。天野貴之というのは蛇のように執念ぶかい。その執念があったればこそ、いまの地位を築いたんだ。とんでもない人間に喧嘩をふっかけたよ、あんた」
その顔は、楽しそうだった。うれしそうだった。
「わたしは、やつに協力せねばならぬ立場だ。本来ならね。だから、法的にはいろいろと動かさせてもらう。でも、わたしはきみたちの味方だよ」
弁護士は、まゆの頬に手をふれた。
「こんなにかわいい子の幸せのためだ。ひとはだ脱がんでいられようかね……」
おれは、弁護士にむかって頭をさげた。
だが、むろん、おれはひとりで戦うつもりだった。
まゆが薄目をあけた。
「ん……おにいちゃん、おうちに帰ったの」
「ああ、帰ってきたよ。おれたちのうちに」
「聞かせてほしいの、あの話のつづき」
まゆは、すこし寝ぼけているのか、とんちんかんなことを言い出す。
「話って?」
「ほら、遮断機どうしの恋のはなし」
シグナルとシグナレス……
「ああ、いいとも」
きっと、ふたりは長い刻を経て結ばれるのだろう。鉄道が高架になり踏切は撤去されて、ふたり、ひとつのトラックで運ばれていく。行き先は夢の島だ。役割を終えた遮断機たちが長い余生を暮らすための世界。そこでふたりは永遠にむすばれる。そして、完全な幸福に包まれながら、ふたりはきっと思うのだ。
――愛しあいながら結ばれなかったあの頃が、今となっては懐かしいね、と。
苦しみに満ちた時間さえ、愛する人が一緒であれば満たされるのだ。
おれは、物語の新しい結末を考えながら、階段の一段目に足をかけた。