三日目(The third day)

「行ってきまーす」

 まゆが学校へ出かけてゆく。転校初日だ。もともと通っていた学校は学費が高くつきすぎるし、遠い。だから転校することになったのだ。両親を失ったショックのみならず、友達とも別れなければならなくなったわけだ。

 昨夜から今朝にかけて、ずいぶん明るくふるまっていたから、たぶん大丈夫だとは思う。しかし、まゆの学費さえ稼ぎ出せない自分自身に腹がたった。

「もっと稼がなくちゃな」

 おれは声に出して言った。めずらしく、仕事への熱意がわき起こってくるのを感じた。

 身仕度をして、会社へと向かう。

 今日からのおれは一味ちがうぜ、と胸のなかでつぶやきながら。

 でも、突然仕事ができるようになるわけもなく、まあ、いつも通りのおれなのであった。

 ただ、今まではダラダラ残業したり、職場の連中と飲みに行ったりして、家には寝に帰るだけだったのだが、今日は時間がやけに気になる。四時くらいになると、自分でもソワソワしているのがわかった。

 学校はもう終わっているはずだ。うちで待っているだろうか。それともどこかへ遊びに行っているのだろうか。

 新しい学校では友達ができただろうか。泣かされて帰ってきてはいまいか。

 ――世の親御さんたちの、なんと気がもめることだろう。今まではこんなこと想像もしていなかった。

 だが、ほんとうに気になってしょうがないのだ。

 定時なると、おれは半ば駆け出すようにして退社した。同僚たちの視線が背中に刺さるが、えい、そんなことどうでもいい。

 帰宅までの半時間がとても長く感じられた。

 アパートの玄関にたどりつき、鍵をひらいた。

 暗い。

「ただいま」

 奥にいるのかもしれないと思って声をかけてみる。

 だが、返事はなく、玄関にはまゆの靴もないようだ。

 まだ帰っていないのだ。いや、あるいは出かけたのか。

 居間の食卓代わりのコタツ(冬以外でもテーブルとして使っている)の上に白い封筒があった。

 ダイレクトメールかと思って何気なく手にとって、おれは凝固した。

『おにいちゃんへ』

 おさない感じのまゆの字だ。

 いやな予感に胸を突かれながら、震える手で封筒から便箋を取り出す。

 たまごっちのキャラクターが印刷されたかわいい便箋に、まゆの言葉があふれていた。

『おにいちゃんへ

 やさしくしてくれてありがとう。

 でも、まゆの家族はもうどこにもいません。

 ひとりはいやです。あの時、まゆもおぼれて死んでいればよかった。そうしたら、天国でおとうさんとおかあさんといっしょにいられたのに。

 だから、今から追いかけてみます。追いつけるかどうかわからないけれども、やってみます。

 ごめんね、おにいちゃん。おにいちゃんのこと、すごく好き。こどものころからずっと好き。おにいちゃんはおぼえていないかもしれないけど、ずっとむかし、遊んでくれた時のこと、わすれていません。だから、いっしょに引き取ってもらえて、すごくうれしかった。

 でも、今にぜったいじゃまになると思う。まゆみたいな子がいたら、おにいちゃんにおよめさんがくるわけないもの。

 だから、まゆはおとうさんとおかあさんのところへ行きます。

 さようなら』

「ふざけるな!」

 おれは怒鳴っていた。手紙を引き裂きかけた。その手を止めて、自分の顔を拳骨で殴った。

「ばかやろう! なんで気づいてやれなかったんだ、おれのあほう!」

 うめきをあげながら、おれは部屋のなかをぐるぐる回った。

 警察――だが、どうやって見つけてもらえばいい?

 あの弁護士――問題外だ。

 まゆ、まゆ、まゆ、どこに行った?

 ヒントはないのか? まゆ、おれにおまえを助けるチャンスをくれないのか?

 おれはもう一度文面を読みかえした。

 むかし、一緒に遊んだ――っけ。どこだったっけ。

 それと、両親のもとに行こうとするからには、自殺方法は溺死だろう。

 ――水。

 そうか。

 おれは玄関へ走った。

 通りに出て、タクシーを拾った。

「多摩川べり」

「多摩川べりったって広いですよ」

「道順はおれが言う。とにかく、急いでくれ!」

 昔のことだ。おれがまだ学生だった頃。

 親戚が家を新築したから手伝いに行け、という連絡が実家から来た。食事が出るということで張り切って行った。当時は金がなくてまともなものを食べていなかったからだ。

 親戚といっても、それが初対面だった。先方は、海外生活が長かったせいか、そういったつきあいがうまくなかったようだ。

 家族は、やや年がはなれているなと感じさせる夫婦と、まだ小さい女の子だった。夫が穏和な感じの中年男性であったのにくらべ、奥さんが若々しく、すごい美人なのにびっくりした記憶がある。女の子は小学校にあがるかあがらないかという年ごろだった。

 驚いたことに、女の子は日本語がわからないようだった。

「この子は海外で育ったので、まだこっちの言葉ができないんですよ」

 母親の影にばかり隠れている女の子のことを、父親が説明した。

「もうすぐ小学校にあがる予定なんですが、友達ができるかどうか心配ですよ」

 引っ越しについては、専門の業者が来ていたので、ほとんどすることがなかった。けっきょく、女の子の相手をひがな一日していたのだ。家のすぐ近くが多摩川で、川面に石を投げたり、ボールで遊んだり、いろいろなものの名前を教えてあげたりして過ごした。

「あれは、い・ぬ」

「INU?」

「いにゅ、じゃなくて、い・ぬ」

「I・NU……?」

「そう、そんな感じ。で、あれはねえ……」

 女の子はずいぶんおれに打ち解けたようで、引っ越しが一段落して、帰ることになった時には、泣かれてしまった。

「Stay here……please」

 父親がそんな女の子の頭を撫でながら苦笑する。

「娘はすっかりあなたを気に入ったようですよ。無理もない。こっちへ来てから、わたしたちもまゆの相手をロクにしてやれなかったし、まゆにはずっと友達がいなかったのですから」

「そうだったんですか……でも、また来ますよ。親戚なんだし、せっかく近くにいるんだから……」

 そう言って別れたのだが、ほどなく学校が忙しくなり、就職活動なども始まるうちに、けっきょく訪ねそこねた。それで、ずっと忘れていたのだ。

 あの時の女の子が、まゆだったのだ。

 そのまゆが両親を追って死を選ぶとしたら、自宅近くの川というのは自然な流れだ。

 タクシーが多摩川にぶちあたった。

「こっち側の道を走ってくれ」

 多摩ぞいはけっこう人通りが多いから、暗くなるまで入水はできないということだけが救いだった。

 いま時間は七時。夏前の太陽はしかし、もはや地平線に没している。残照があるのもあと数分だろう。

 車が、見覚えのあるあたりに行きついた。ここからは車ではだめだ。おれは紙幣を運転手に渡し、つりも受け取らずに路上に走り出た。

 川原が見える道を走る。たまに犬の散歩をしている人にすれちがう。そのたびに、一人でいる女の子を

見なかったか、と聞いてみた。ほとんどが無視して通りすぎてゆく。答えてくれた人も、知らない、というばかりだ。

 都会の空に星が見えるほどの暗さになった。もう遠目からでは見つけられない。おれは川原に降り、走りながら叫んだ。

「まゆ! どこだ!?」

 恥もへったくれもない。何組かのカップルが、奇態な叫びをあげて走るおれを気味悪げに見ている。

「自分をふった女でもおっかけてんじゃねえの」

「ストーカーってやつ? やだー」

 おれを指差して笑っているやつら。笑え。おまえたちがいるところにはまゆはいまい。その手がかりをくれたから、許してやる。

「まゆぅ! 返事をしろ!」

 おれはなおも闇の川原を走る。

 息が切れた。最近、体力の減退がはなはだしい。声が出なくなる。くそう。

「まゆ……死ぬな! おれのために死ぬな!」

 かすれ声をはりあげる。

 この暗い空の下、ひとり死んでいこうとしている少女がいる。その子を救ってやることさえできない男がここにいる。たのむ、神さま、宝くじが一生当たらなくてもいいから、いまだけはおれに運をくれ。

「まゆ……」

 これ以上は走れない。おれは川原に突っ伏した。心臓が跳ねまわっている。耳鳴りがする。自分の心音が、いろいろな音に変化して聞こえる。汽笛の音とか、パチンコの音とか。

『おにいちゃん』

 耳鳴りがまゆの声に化ける。

『おにいちゃん……』

 幻聴はやまない。おれは顔をあげた。

 まゆがいた。半ズボンにだぶだぶTシャツ。子供用の小さなナップザック。細い脚にはスニーカー。裸足でかかとを踏んでいる。脚は太股の上のほうまでずぶ濡れだ。何度か流れのなかへは入ったのだろう。

「だいじょうぶ、おに……」

 みなまで言わさず、おれはまゆを抱きしめた。

 抱きつぶしてもかまやしない。そんなふうに思った。いっそ、抱きつぶして、おれの身体にしてしまいたい。そんなふうにも思った。

「いた……くるしいよ」

「これは罰だ。おれを残して行ってしまおうとした罰だ」

 自分でも驚いたが、涙声になっている。情けないとも思ったが、しかつめらしい声なんてでてこない。

「……おにいちゃん」

「おれだって独りなんだぞ。おまえしかいないんだ。それがわからなかったのか」

「ごめん……ごめんね……」

 まゆがおれの頭に手をまわした。まるで母親がそうするように、おれを抱きしめかえす。

 おれは気づいていた。

 これは保護者の感情じゃない、と。

 男として、まゆを愛しているのだ、ということを。

 そして、まゆもまた……