「行ってきまーす」
まゆが学校へ出かけてゆく。転校初日だ。もともと通っていた学校は学費が高くつきすぎるし、遠い。だから転校することになったのだ。両親を失ったショックのみならず、友達とも別れなければならなくなったわけだ。
昨夜から今朝にかけて、ずいぶん明るくふるまっていたから、たぶん大丈夫だとは思う。しかし、まゆの学費さえ稼ぎ出せない自分自身に腹がたった。
「もっと稼がなくちゃな」
おれは声に出して言った。めずらしく、仕事への熱意がわき起こってくるのを感じた。
身仕度をして、会社へと向かう。
今日からのおれは一味ちがうぜ、と胸のなかでつぶやきながら。
でも、突然仕事ができるようになるわけもなく、まあ、いつも通りのおれなのであった。
ただ、今まではダラダラ残業したり、職場の連中と飲みに行ったりして、家には寝に帰るだけだったのだが、今日は時間がやけに気になる。四時くらいになると、自分でもソワソワしているのがわかった。
学校はもう終わっているはずだ。うちで待っているだろうか。それともどこかへ遊びに行っているのだろうか。
新しい学校では友達ができただろうか。泣かされて帰ってきてはいまいか。
――世の親御さんたちの、なんと気がもめることだろう。今まではこんなこと想像もしていなかった。
だが、ほんとうに気になってしょうがないのだ。
定時なると、おれは半ば駆け出すようにして退社した。同僚たちの視線が背中に刺さるが、えい、そんなことどうでもいい。
帰宅までの半時間がとても長く感じられた。
アパートの玄関にたどりつき、鍵をひらいた。
暗い。
「ただいま」
奥にいるのかもしれないと思って声をかけてみる。
だが、返事はなく、玄関にはまゆの靴もないようだ。
まだ帰っていないのだ。いや、あるいは出かけたのか。
居間の食卓代わりのコタツ(冬以外でもテーブルとして使っている)の上に白い封筒があった。
ダイレクトメールかと思って何気なく手にとって、おれは凝固した。
『おにいちゃんへ』
おさない感じのまゆの字だ。
いやな予感に胸を突かれながら、震える手で封筒から便箋を取り出す。
たまごっちのキャラクターが印刷されたかわいい便箋に、まゆの言葉があふれていた。
『おにいちゃんへ
やさしくしてくれてありがとう。
でも、まゆの家族はもうどこにもいません。
ひとりはいやです。あの時、まゆもおぼれて死んでいればよかった。そうしたら、天国でおとうさんとおかあさんといっしょにいられたのに。
だから、今から追いかけてみます。追いつけるかどうかわからないけれども、やってみます。
ごめんね、おにいちゃん。おにいちゃんのこと、すごく好き。こどものころからずっと好き。おにいちゃんはおぼえていないかもしれないけど、ずっとむかし、遊んでくれた時のこと、わすれていません。だから、いっしょに引き取ってもらえて、すごくうれしかった。
でも、今にぜったいじゃまになると思う。まゆみたいな子がいたら、おにいちゃんにおよめさんがくるわけないもの。
だから、まゆはおとうさんとおかあさんのところへ行きます。
さようなら』
「ふざけるな!」
おれは怒鳴っていた。手紙を引き裂きかけた。その手を止めて、自分の顔を拳骨で殴った。
「ばかやろう! なんで気づいてやれなかったんだ、おれのあほう!」
うめきをあげながら、おれは部屋のなかをぐるぐる回った。
警察――だが、どうやって見つけてもらえばいい?
あの弁護士――問題外だ。
まゆ、まゆ、まゆ、どこに行った?
ヒントはないのか? まゆ、おれにおまえを助けるチャンスをくれないのか?
おれはもう一度文面を読みかえした。
むかし、一緒に遊んだ――っけ。どこだったっけ。
それと、両親のもとに行こうとするからには、自殺方法は溺死だろう。
――水。
そうか。
おれは玄関へ走った。
通りに出て、タクシーを拾った。
「多摩川べり」
「多摩川べりったって広いですよ」
「道順はおれが言う。とにかく、急いでくれ!」
昔のことだ。おれがまだ学生だった頃。
親戚が家を新築したから手伝いに行け、という連絡が実家から来た。食事が出るということで張り切って行った。当時は金がなくてまともなものを食べていなかったからだ。
親戚といっても、それが初対面だった。先方は、海外生活が長かったせいか、そういったつきあいがうまくなかったようだ。
家族は、やや年がはなれているなと感じさせる夫婦と、まだ小さい女の子だった。夫が穏和な感じの中年男性であったのにくらべ、奥さんが若々しく、すごい美人なのにびっくりした記憶がある。女の子は小学校にあがるかあがらないかという年ごろだった。
驚いたことに、女の子は日本語がわからないようだった。
「この子は海外で育ったので、まだこっちの言葉ができないんですよ」
母親の影にばかり隠れている女の子のことを、父親が説明した。
「もうすぐ小学校にあがる予定なんですが、友達ができるかどうか心配ですよ」
引っ越しについては、専門の業者が来ていたので、ほとんどすることがなかった。けっきょく、女の子の相手をひがな一日していたのだ。家のすぐ近くが多摩川で、川面に石を投げたり、ボールで遊んだり、いろいろなものの名前を教えてあげたりして過ごした。
「あれは、い・ぬ」
「INU?」
「いにゅ、じゃなくて、い・ぬ」
「I・NU……?」
「そう、そんな感じ。で、あれはねえ……」
女の子はずいぶんおれに打ち解けたようで、引っ越しが一段落して、帰ることになった時には、泣かれてしまった。
「Stay here……please」
父親がそんな女の子の頭を撫でながら苦笑する。
「娘はすっかりあなたを気に入ったようですよ。無理もない。こっちへ来てから、わたしたちもまゆの相手をロクにしてやれなかったし、まゆにはずっと友達がいなかったのですから」
「そうだったんですか……でも、また来ますよ。親戚なんだし、せっかく近くにいるんだから……」
そう言って別れたのだが、ほどなく学校が忙しくなり、就職活動なども始まるうちに、けっきょく訪ねそこねた。それで、ずっと忘れていたのだ。
あの時の女の子が、まゆだったのだ。
そのまゆが両親を追って死を選ぶとしたら、自宅近くの川というのは自然な流れだ。
タクシーが多摩川にぶちあたった。
「こっち側の道を走ってくれ」
多摩ぞいはけっこう人通りが多いから、暗くなるまで入水はできないということだけが救いだった。
いま時間は七時。夏前の太陽はしかし、もはや地平線に没している。残照があるのもあと数分だろう。
車が、見覚えのあるあたりに行きついた。ここからは車ではだめだ。おれは紙幣を運転手に渡し、つりも受け取らずに路上に走り出た。
川原が見える道を走る。たまに犬の散歩をしている人にすれちがう。そのたびに、一人でいる女の子を
見なかったか、と聞いてみた。ほとんどが無視して通りすぎてゆく。答えてくれた人も、知らない、というばかりだ。
都会の空に星が見えるほどの暗さになった。もう遠目からでは見つけられない。おれは川原に降り、走りながら叫んだ。
「まゆ! どこだ!?」
恥もへったくれもない。何組かのカップルが、奇態な叫びをあげて走るおれを気味悪げに見ている。
「自分をふった女でもおっかけてんじゃねえの」
「ストーカーってやつ? やだー」
おれを指差して笑っているやつら。笑え。おまえたちがいるところにはまゆはいまい。その手がかりをくれたから、許してやる。
「まゆぅ! 返事をしろ!」
おれはなおも闇の川原を走る。
息が切れた。最近、体力の減退がはなはだしい。声が出なくなる。くそう。
「まゆ……死ぬな! おれのために死ぬな!」
かすれ声をはりあげる。
この暗い空の下、ひとり死んでいこうとしている少女がいる。その子を救ってやることさえできない男がここにいる。たのむ、神さま、宝くじが一生当たらなくてもいいから、いまだけはおれに運をくれ。
「まゆ……」
これ以上は走れない。おれは川原に突っ伏した。心臓が跳ねまわっている。耳鳴りがする。自分の心音が、いろいろな音に変化して聞こえる。汽笛の音とか、パチンコの音とか。
『おにいちゃん』
耳鳴りがまゆの声に化ける。
『おにいちゃん……』
幻聴はやまない。おれは顔をあげた。
まゆがいた。半ズボンにだぶだぶTシャツ。子供用の小さなナップザック。細い脚にはスニーカー。裸足でかかとを踏んでいる。脚は太股の上のほうまでずぶ濡れだ。何度か流れのなかへは入ったのだろう。
「だいじょうぶ、おに……」
みなまで言わさず、おれはまゆを抱きしめた。
抱きつぶしてもかまやしない。そんなふうに思った。いっそ、抱きつぶして、おれの身体にしてしまいたい。そんなふうにも思った。
「いた……くるしいよ」
「これは罰だ。おれを残して行ってしまおうとした罰だ」
自分でも驚いたが、涙声になっている。情けないとも思ったが、しかつめらしい声なんてでてこない。
「……おにいちゃん」
「おれだって独りなんだぞ。おまえしかいないんだ。それがわからなかったのか」
「ごめん……ごめんね……」
まゆがおれの頭に手をまわした。まるで母親がそうするように、おれを抱きしめかえす。
おれは気づいていた。
これは保護者の感情じゃない、と。
男として、まゆを愛しているのだ、ということを。
そして、まゆもまた……