まゆ、それから

〜満たされた毒牙〜


 まゆは電話ボックスに入り、十円玉で電話をかけた。市内通話だ。

 専用の番号。

 呼びだし音が三回鳴った。受話器があがる音がする。

「もしもし」

 ふとい、男の声だ。

「あ……おじさま?」

「まゆチャンか。どうしたんだい?」

 甘ったるく、優しい口調。

「あの……近くまで来てるんです。遊びにいってもいいですか?」

「もちろん、いいとも」

「お仕事、だいじょうぶ?」

「忙しいけど、なんとかするさ。まゆチャン、相談があるんだろう?」

 まゆは図星をさされて黙りこんだ。

「――いいよ、きなさい。裏口をあけておくから、そこからおいで。表からだと、事務所を通らなければならないからね。いくらなんでも、面会待ちのお客さんの前を突っ切られたら、わたしも立場がない」

 男は笑った。まゆもなんとなくほっとして、あまり意味のない言葉をいくつか口にして、受話器をおいた。

 数分後、まゆは男のオフィスにいた。

 広くて豪華な部屋だ。革張りの大きなソファがあり、部屋の奥には黒檀でできた立派な机がある。机の上は書類だらけだ。

「いま、ちょっとむずかしい訴訟をあつかっていてね。調べものが多いんだ」

 手ずからジュースを給仕してくれた、このオフィスの主が説明した。

「今日一杯は来客を断ってオフィスこもりをすることにしているんだ。だから、秘書もやってこないよ」

「弁護士ってすごいお仕事なんだあ」

 部屋の壁を占める書棚にならぶ本は、どれも分厚くて、むずかしい漢字の題名のものばかりだ。なかには横文字のものもある。ペーパーバックがならぶ、まゆのアパートの本棚とはえらくちがう。

「うちのお兄ちゃんも、もっと勉強していれば、弁護士とかになれたのかなあ」

「――そうかもしれないね」

 弁護士は唇をかすかにゆがめて笑った。おとなが見れば、そこに優越感のあらわれを感じたろうが、ジュースに気をとられたまゆにはわからない。

「沢くんはどうだい? あいかわらず、忙しいのかな?」

「うん。会社をかわってから、たいへんみたい。いつも夜遅くだよ」

 まゆの保護者はかつてはサラリーマンだったが、そのポストを失って以来、職を転々としている。なかなかひとつの職場に落ちつけない生活が続いている。

「まゆ、起きてようとするんだけど、がまんできなくて寝ちゃうの。朝は、お兄ちゃん、すごく早いし、ほとんど顔を合わせる時間がないの」

「ふうん、それは寂しいね」

「……うん。まゆ、つまんない」

 まゆはソファの上で脚をぶらつかせた。短いスカートが腿までめくれるが、気にしていない様子だ。

 それを弁護士はさりげなくチェックしている。

「ジュースのおかわりはどうだい?」

「あ、ありがとう、おじさま」

 弁護士は空のガラスコップを手に取り、オフィスの隣にあるミニキッチンにはこぶ。冷蔵庫からオレンジジュースのペットボトルを出し、八分目までそそぐ。そして、ポケットから取り出した小さなびんから、透明な液体を数滴たらす。

 にやっ、と笑うその顔は、さっきまでの慈父のそれとはまったくちがう。

「お兄ちゃん、まゆのこときらいになったのかなあ……」

 ソファに並んですわって、よもやま話をしている途中で、ふっとまゆが顔をくもらせた。

「どうしてだい?」

「だって……最近はちっとも……」

「ちっとも?」

 弁護士がまゆの顔を覗きこむようにする。

 まゆは言葉につまる。顔が赤くなる。

「……前、ちょっと話したでしょ」

「なにを?」

「ないしょの話で……ほら」

「ああ、まゆちゃんはもう大人だ、という話か」

 もってまわった言いかたを弁護士はした。まゆはほっとして笑う。

「そう。でもね、おにいちゃん、近ごろはぜんぜんまゆにしてくれないの」

「してくれないって、なにを? エッチかい?」

「やだ、おじさま、はっきり言わないでよお」

 ある意味でまゆは子供らしさを見せてしまう。秘密を共有している相手には、あけっぴろげになってしまうという軽率さを。

「はは、ごめん、ごめん」

 まゆのこぶしによる淡い打撃に苦笑しながら、弁護士はまゆとの間隔をさりげなくつめ、身体の接触面をふやす。

「でも、この前おしえてあげたろ? おとなの男がどんな女の子に惹かれるかって話を」

「うん、でも、だめだった」

「仮病をつかってもダメだった?」

「うん。ふざけてないで、学校へ行けって」

「わざと下着を見せる、っていうのは?」

「だらしないって、叱られた」

「なるほどねえ……」

 意味ありげに、弁護士は嘆息した。その態度が気になって、まゆはつい食い下がる。

「なに、おじさま。なんかわかったの」

「いやね、まゆチャンは子供なんだなあって……」

「まゆ、子供じゃないもん!」

 ちょっと眉根をひそめて、抗議口調になる。

「少なくとも沢くんはそう思っているんだよ。まゆチャンに女の魅力を感じていないんだよ」

 弁護士の断言に、まゆの表情がくもる。自分でもそうではないかと思っているだけにおもてだっては反論できないのだ。

「そうかなあ……」

「まあ、大人の女ならば誰でもやっていることを、まゆチャンはしていないんだから、しかたないね」

 突き放した言いかたを弁護士は選び、まゆはそれに反応する。

「大人の女のひとがしていること? なにそれ」

「まゆチャンもやってみるかい?」

「うん、する。大人の女の人になりたいもん」

「でも、できるかなあ……むずかしいと思うけど」

「するったらする! お願い、おじさま、教えて」

つづく