まゆ、それから


ぼくたちは時間の流れのなかでもがき続けていた

はじめて足のとどかないプールに入った子供のように

おびえながら、ふるえながら、

じっとそれが通りすぎるのを待っていた

息をひそめたままで……


 下校のチャイムが鳴った。

 七瀬まゆはひとり、校門をくぐった。

 いっしょに帰る友人はいなかった。

 いたとしても、いまの時期は塾がよいをしている。話す事柄も参考書のことや塾の講師のことばかりだ。

 小学六年生――言いかえれば中学受験生である。

 まゆは時代遅れの赤いランドセルをせおっていた。いまどきの小学六年生は色とりどりのザックがふつうだ。なかにはブランドもののバッグを持っている者もいる。だが、そのランドセルは良明が買ってくれたものだった。彼の感覚では小学生はランドセルと決まっていたのだ。

 だから、まゆはそのランドセルを愛用していた。

 でも、もうすぐそれも終わりだ。

 この冬がすぎ、春がくれば中学にあがることになる。まゆは地元の公立中学に進むことに決めていた。味もそっけもない紺のセーラー服に袖を通すことになる。

『まゆは祥英に行きたいんだろ』

 六年生になって、進路のことがかすまびしくなったころ、同居人でまゆの保護者でもある沢良明に聞かれたことがある。

 祥英学園は私立の名門校だ。偏差値も高く、制服のセンスもいいから、勉強のできる子はみんな入りたがった。

『公立のほうがいいよ。勉強にがてだし、友達もみんな公立に行くから』

 まゆは良明にはそう答えたが、それは事実ではなかった。まゆは充分に合格圏内にいたし、親しくしていたわずかな友人たちはみなそれぞれの志望中学を目指して臨戦態勢にはいっていた。

 だが、祥英に行きたい、とは言えなかった。入学金だけで100万近くかかる。年間学費はそれ以上だ。制服代や雑費もいろいろ必要だ。

 会社の職を失ってから、良明はアルバイトを点々としていた。住んでいたアパートも家賃が払えなくなって、壁のうすい、すき間風が吹きこむようなボロアパートに移った。

『でも、祥英なんだろ、おかあさんの母校』

 良明が独白のように言う。まゆは顔を一瞬ふせ、それからあわてて笑顔をつくる。祥英の制服を着た母親の少女時代の写真を思い出したのだ。そのシーンはまゆの憧れであり、夢だった。いつか、おかあさんとおなじ学校に――だが、それはほんとうに夢でしかなくなったのだ。

『すまん、まゆ。おれがふがいないばっかりに……』

 良明もつらそうな表情になる。そんな良明にまゆは笑いかけた。

『やだなあ、おにいちゃん。テレビのコントじゃないんだからさ。まゆ、いまのままで幸せだよ』

 シアワセダヨ……

 下校途中の道の側溝を流れる生活廃水が、段差で小さな滝をつくって、泡立っていた。

 あぶくがふくれてはちぢみ、ちぢんではふくらむ。まるで入道雲のようだった。どぶ川のその一角だけ、夏の空のふりをしているかのように。

 まゆはその光景を見つめていた。

 シアワセ……ナノカナ……

 ほんとうの空は鉛色だった。雪でもふりそうな。

 うすっぺらなスタジアムジャンパーの前をかきあわせて、まゆは少し赤くなった鼻をすんと鳴らした。

 ちいさな疑念は、ちょっとした行き違いからはじまっていた。

 いや、それは、ささいなことだとまゆが思っていたよりもずっと深刻な問題で、ずいぶん前からはじまっていたのかもしれない。

『おにいちゃん……』

 ふたつ敷き延べたふとんの片側から、まゆが呼びかける。

 良明は寝息をたてている。わざとらしい演技だとわかる。

『ねえ、おにいちゃんってば』

 笑いをふくんだ声でまゆは呼びかけ、布団から脚を出して良明をつつく。

 つんつんと足の指先でつついても、良明は反応しない。

『もお、おこったぞ』

 まゆは声をあらげるふりをし、抱きしめられる自分をイメージしながら、良明の布団にとびこむ。

 ふとんごしに良明の硬い骨格と体温を感じる。心臓が期待で早鐘をつく。もう、身体の一部分にぬるみを生じているのがわかる。

『おにいちゃあん』

 あまえ声をだしながら、良明の頬と顎をなでる。ひげのチクチクした感触が気持ちいい。

『やめなさい、まゆ』

 良明の声に怒りの波動を感じ、まゆはおどろく。

『おとなしく寝なさい。ふざけてはいけない』

 良明は目をあけることさえしない。

 まゆに触れることもむろんない。

 なにかが変わってしまったことを感じつつ、まゆはじぶんの寝床に戻る。

 ――そんな夜が続いていた。

 はじめのうちは、良明はなれない仕事で疲れているのだ、だからなのだ、と思っていた。

 しかし、そうなってから一年になろうとしている。

 きっかけは、なんだろう。たぶん、まゆが初潮をむかえてからだ。

 五年生の冬、まゆは学校でそのようになり、担任の女教師に助けてもらった。

 まゆは素直によろこんだ。おとなに少しでも近づけたことがうれしかったのだ。

 帰ってきた良明に報告するのには勇気がいった。けっきょく、夜、床に入ってから告白した。良明は驚いたようだった。

 良明も喜んでくれた。まゆもおとなになっていくんだなあ、と感慨ぶかげにつぶやいたものだ。

 そして――良明の態度が微妙に変化していった。

 まゆは良明に愛されるのが好きだった。挿入されると痛みはあったが、それにも増して充足感があった。切なそうに顔をゆがめる良明を見ていると、それだけで泣き出したくなるくらいの幸福感があった。良明が放ったものの熱さを感じる瞬間がいちばん満たされた。

 だが、良明はまゆに触れることをしなくなった。まゆが求めても、だ。

 それからというもの、良明の帰る時間はめちゃくちゃになった。

 どうかするとほんとうの真夜中まで帰ってこない。しかも、息が酒くさい。首筋などから女の香水の匂いがすることもあった。

 そして、起きて待っていたまゆを叱るのだ。子供はちゃんと早く寝なさい、と。

 まゆは黙ってその命令にしたがう。だが、そんな夜は、まゆはねむれない。くやしくて、かなしくて、ねむれない。

 この頃から、まゆは自慰をするようになった。

 最初は、良明の帰りが遅い夜、こっそりと。

 自分の指でも快感はえられることがわかると、頻繁にするようになった。と、いうより、がまんできなくなった。

 夜、良明と布団をならべて寝ながら、自慰をしたこともある。息づかいや湿った音から、まゆがなにをしているか、良明にも伝わったろうと思う。それでも良明はじっとしていた。

 おにいちゃんは、もう、まゆにあきたんだ……

 そう、思うようになっていた。

 激しく求められた記憶が生々しく残っているだけに、人がわりしたような良明を見るたびに空虚感がおそってくる。

 部屋に帰るのもつらかった。最初は夢にみちあふれていた二人の城も、いまは落剥した良明の現状を指し示す廃墟のようだった。

 あんな部屋に住むようになって、おにいちゃんはきっと後悔してるんだ。わたしなんか引き取ったから……

 居場所がなくなっていくような気がした。

 学校からして、まゆの存在を無視しはじめていた。生徒たちの間では受験の話題の花が咲き、教師たちもはじめての受験に臨む教え子たちのコンディションを最優先していた。

 家でもそうだ。良明は夜中に帰ってくる。逆に朝は早い。まゆが起きた時にはもう出かけていることがほとんどだ。だから会話じたいが減っていた。

 そんなまゆが気をまぎらわせることができる場所といったら、ひとつしかなかった。

 今日も、行こうかな……

 まゆの足は、自然とそちらに向かっていた。どうせ家に帰ってもひとりぼっちなのだ。0

 

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