5 帰宅――前

 

「今日ね、好男くんちに遊びに行くんだ」

 下足室で美琴が真由美にささやいた。

「だからね、その……今日は真由美ちゃん家に行ってるってことにして?」

 心にズンと来る一言だったが、真由美は笑顔を作った。

「合点承知、よ。で、今日こそはいよいよ……ってわけ?」

「そっ、そんなっ! ちがっ、ちがうよぉぉ」

「だって家の人に嘘ついてまで……ってことは」

「だから、うち、そういうの厳しいから……もお真由美ちゃんの意地悪」

 美琴の家は厳しく、男女交際などもってのほか、門限も六時と厳しい。だが、真由美のことは美琴の両親にも気に入られており、真由美と一緒ということであればその門限がすこしゆるくなるのだ。

「がんばって、美琴」

「うん……真由美ちゃんもね」

「へ? あたし?」

「うん。なんだか真由美ちゃん無理してるみたいなとこあるから……困ってることがあったら何でも言ってね」

 まさか、さっきまで映研の部室で男子生徒二人に犯されていた、などと言えるわけがない。

 真由美は力こぶを作ってみせる。

「そんなー、ぜんぜんヘーキだよっ! ほらっ、元気、本気、岩鬼! ゃぁ〜まだ!」

「真由美ちゃん、そのネタ、古すぎて誰もわかんないと思う」

 ――美琴には通じたようで、よかった。

 と、その美琴が言いにくそうに切り出す。

「ね、真由美ちゃん……よかったらだけど、好男くんちに一緒に行ってくれない?」

「え、どして」

「やっぱり緊張するっていうか……好男くんが出てくるまででいいから」

 美琴の顔色は心なしか青い。もともとあがり症で臆病な性格だ。最近はずいぶん明るくなったが(それも好男が何か関係しているようだが)、それでも、彼氏の家に初めて招かれるというのはプレッシャーらしい。

「ま、いいけど。どうせ、帰り道だし」

 本当のところは色事家を訪ねるのは気が引けるが――それでも、こういうきっかけでもないと縁遠くなってしまうばかりだ。

 それを思うと、すこし心が痛い。

 彼女にはなれなかったけど、幼稚園からの腐れ縁――幼なじみでは、いたい。

 色事家には程なく着いた。

 緊張してなかなか呼び鈴を押せない美琴に代わって真由美が呼び出してやる。

 待ちかねていたのだろう、好男が迎えに出て、真由美を見て少し固まる。

「よ、よお、真由美も一緒だったのか」

「ごめんね、お邪魔虫がついてきて。だいじょうぶ、あたしはすぐに帰るから」

 好男の反応は当然だと思いつつ、やっぱり憎まれ口をきいてしまう。

 美琴を振り返り、その手を握ってやる。

「変なことされそうになったら、大声を出すのよ……なんちゃって」

「真由美ちゃん……帰っちゃうの?」

「そりゃあ、マジでお邪魔でしょうが」

 真由美としても、好男と美琴がいちゃつく現場に居合わせたくない。泣きたくなる。

「――真由美、帰るなよ。ゆっくりしてけよ、今までみたいに」

 ああ、バカのくせに、なんでそんな真面目な顔すんのよ――好男のくせに!

 好男が本気で真由美を引き留めたがってるのがわかる。それは嬉しい。でも、帰らずに、図々しく家に上がったら、せっかくの美琴と好男の時間を壊してしまう。

「帰るわよ、バーカ!」

 好男にあっかんべ、美琴には手を振って、色事家の前から去る。しばらく真由美を見送っていたようだが、じきに美琴を連れて好男が家に入っていくのが真由美にはわかった。門扉の音、玄関の戸の音で、わかる――

 真由美の頬にあたたかい雫が、こぼれる――

 

 涙のせいで行く手が見えず、だから、その男の存在に気づくのが遅れた。わかっていれば、やり過ごせたのに。もともとおおざっぱで、そんなに注意深いひとではないから。

「お、真由美ちゃんじゃないか」

 おおように声をかけてくる。いつでも楽しげな表情、態度。人生を謳歌しきっている、子供のような大人、あるいは、大人のような子供。

 色事極太。好男の父である。

「なんだ、ウチの前まで来て素通りたあ水くさいな」

 派手なアロハに短パン、浅黒い肌に金のアクセ。完全な遊び人スタイルだが、エリート商社マンで、世界各国を飛び回り、数カ国語を操るとともに、大型免許やら飛行機のライセンスやら船舶免許やら、数十もの資格・免許を持っているという、マルチな人間だ。数多くの異名を持つが、その中でも本人が一番自慢としているのが「素人女性千人斬り」という称号である。

 真由美とは、真由美がよちよち歩きの頃からのつきあいだ。

「好男は家にいんだろ? 寄ってけ、寄ってけ」

 真由美が事情を説明するいとまもなく、肩をつかんで色事家へと押し込んでいく。

 いくら真由美が柔道の達人でも、この男の強引さにはかなわない。

 色事家に、久しぶりの訪問を果たすことになってしまった。

「お、ほかにもお客さんが? 女の子か」

 玄関の靴の並びを見て、極太が驚いたように声をあげる。

「お、おじさん、声、大きい」

「なんで? あ、なるほど、好男のやつ、例のガールフレンドを連れ込んだのか」

 察しがいい。もとより頭の回転は速いのだ。

「知ってるんですか?」

「そりゃあ、息子のことだ。だいたいはわかるさ。そうか、アイツがなあ……」

 遠い目をする。この男のことだから、息子が女の子を家に連れ込んだことについて批判的であるはずがない。小学生のときにすでに複数の愛人を持っていたというような男だ。むしろ喜んでいるに違いない。

 だいたいにして、好男はなんで極太が帰ってくる時間帯に美琴を連れ込んだのか。詰めが甘すぎる。

「おじさん、仕事は?」

 ついつい小声になる真由美。

「いやーまーなんつーか、リストラ?」

「うそっ!」

「不景気だからなあ。もっとも、おれの仕事知ってるだろ? もともと仕事があるときは忙しいし、そうでもない刻はひたすら暇なんだよ」

 そういえば、何年か前に極太は商社をやめていた。仕事(と女遊び)にかまけすぎて奥さんに逃げられたのがきっかけだったようだが、今はフリーのコンサルタントのようなことをしているらしい。

「大丈夫なんですか……?」

「ああ。いざとなれば好男を働かせるから大丈夫。あいつ彼女ができて調子のってるから、半年くらいマグロ漁船に乗せてみるのもおもしろい」

「中学生の息子になにさせる気ですか……」

「あと、沙世もいるしな」

 好男の妹の沙世はまだ小学生だ。

「あいつはその気になれば俺より稼げるぞ。Tバックはかせて写真集とかDVDとかよ」

「冗談でもそんなこと言わないでください」

 この時節柄、恐ろしすぎる。たしかに沙世なら売れそうだけれども。

「あたりまえだ。かわいい沙世の裸をロリコンのクズどものズリネタにさせてたまるかよ。あれはおれだけのズリネタだ」

「つかっとるんかい!」

 思わず真由美は突っ込んだ。

「……その突っ込み、さすがだな」

 嬉しげに唇をゆがめる極太。そんな表情は好男にそっくりで、ついドキリとしてしまう。

「お?」

 極太が耳に手をあてた。

「ほら、真由美ちゃん、そろそろ始まったようだぜ」

「な、なにがですか」

「わかってるくせに……好男の部屋から、かわいい声が聞こえてきたじゃないか」

 ――まさか。

 ――せめて、お父さんが帰ってきていることくらい、気づけばいいのに。

「さ、真由美ちゃん、行こうぜ」

 極太が立ち上がる。

「ど、どこへ?」

「決まってるだろ、好男たちを覗きに行くんだよ」

 極太は悪戯小僧の表情で言った。