「冗談じゃないわよ――どうしてあんたがここにいるのよ」
アスカは包帯だらけの身体をむりに動かして、ぼくから離れようとする。
そこは、なにもない砂浜だ。
目の前にはLCLの赤い海が広がり、崩壊した巨大な女神の亡骸が沈みかけている。
「みんな、死んだんだ。溶けて、いなくなってしまったんだ」
ぼくは言った。自分でもなにがどうなったのか、わからない。夢のなかで母さんと話したような気がする。父さんと会ったような気がする。それに――
アヤナミ・レイ
あれはなんだったんだろう。優しくて、包まれるようで、すべてを赦してもらえた。あの安寧に抱かれていたかった。そうしていれば、きっと、いま感じているような違和感は持たずにすんでいたろう。
生きている、ということに対する現実感のなさ。
なぜ、ぼくはここにいるんだろう。
そして、なぜアスカがいっしょにいるんだろう。
ぼくは拒否されたのに。
いっしょにいたくないと言われたのに。
なのに――
「なにさっきから黙ってるのよ。説明しなさいよ。ミサトはどこ? ファーストは? 碇司令はどうなったの? だいたいにして、この世界はなんなのよ」
「それは……」
ぼくは言葉につまった。説明しようにも、どうすればいいのかわからない。ただ、ひとつだけ、まず伝えないといけないことがある。
「ミサトさんは……死んだんだ」
お墓のかわりになるかどうかわからない――標(しるし)をぼくは目で示した。
「リツコさんや、マヤさんや、日向さんや、青葉さんも……」
そして、父さんも。
「もう、ぼくたちが知っていた形では存在していない」
LCLの海がうねっている。まるで、それがひとつの生命体であるかのように。
「ふぅん……」
アスカは膝を抱いて、海を見つめていた。
「人類補完計画の完成ってわけ? じゃあ、みんな悩みがなくなってハッピーってこと?」
歌うような口調だ。
「じゃあ、なんで私はココにいるの? なんで、バカシンジなんかと一緒にいるの? どうして……生きてるの?」
アスカは膝に顔を埋めた。泣いているのだろうか。
すすり泣く声の――かわりに、くるるるぅ、とアスカのお腹が鳴った。
ギロリ、アスカがぼくを睨みつける。
「おなかすいた」
ぼくとアスカは街を歩いていた――そこが街と呼べるとしたら、だが。
徹底的に無人だ。建物の破壊もひどい。もともと、ネルフ本部の直上にあった市街地は水没していた上に、さらに戦自の攻撃で崩落してしまっており、原型もとどめていない。さらにそれらすべてを覆いつくすLCLの海――まともな建物が残っているとしたら、山ぞいの一部だけだ。
「なぁにぃ、コンビニくらい残ってないのぉ?」
足を引きずるようにして歩きながら、アスカが声を絞り出す。ぼくもあたりを見回した。
「なにも……ないね」
「なんでついてくんのよ」
アスカの視線は冷たい。ぼくは言葉につまる。
「だって……」
「だってもなにもないわよ。二人っきりになったからって、へんなことは考えないでよ。私はあんたなんか大っ嫌いなんだから!」
わかっていても、面と向かって言われると息がとまる。でも、そう言われてもしようがないことをぼくはアスカにしてしまったんだ。
「ああ……ラーメン食べたいなあ。ミサトの作るカップラーメンでもいい」
お腹をさすりながら、アスカがつぶやく。
ぼくはアスカから距離を取って、それでもとぼとぼと歩きつづけた。道がカーブして、山の斜面が迫ってくる。ぼくはふと気づいて、斜面を駆けのぼってみる。
アスカが路上からぼくを見あげている。眉をひそめて、訝しそうだ。
「どこ行くのよ、バカシンジ!」
苛立ったような声をあげる。ぼくはそれを振りきって、斜面の道を見つける。しばらく登ると民家があった。平屋建ての、プレハブに毛が生えたような小さな家だ。だが、その庭に、それは実っていた。
真っ赤に輝く、熟しきったトマト。
「んはっ、これっ――おいしいっ!」
口許を果肉で汚しながら、アスカが咀嚼する。
家庭菜園にしてはやや本格的な畑の収穫物を両手に抱えて、アスカは食事の真っ最中だ。
トマトだけではない。きゅうりや、ナス、かぼちゃなどの夏野菜が栽培されていた。芋も植えられているようだ。
家の中を調べてみると、米や味噌、乾物や缶詰などの保存食料も、かなり備蓄されているのがわかった。敷地に、井戸まである。まるで、自給自足をしようとしていたかのようだ。
「よく、こんな一軒家見つけられたわね」
「偶然だよ」
ぼくは言った。実際そのとおりだ。ふと視界の端に、赤いものが映ったような気がしたのだ。
菜園のそばに置き捨てられたじょうろを見て、なぜだかカジさんのことを思いだした。カジさんはスイカに水をやるのが自分の仕事だと言っていた。人間は、最後の最後には、自分のできることをするしかないのだ、とも――言っていたような気がする。
ぼくに、いったいなにができるんだろう。
この、すべてが死に絶えたように見える世界で。
「ねえ、しばらくはここにいたほうがいいわよね?」
アスカが縁側に腰掛けながら、ぼくに話しかけた。
なぜ、そんなことを訊くんだろう。
「アスカの、好きなようにしたらいいよ」
むっ、としたようにアスカの表情が険しくなる。
「もちろん、勝手にするわよ。ここなら食べ物にはしばらく困らないし、水もあるからお風呂にも入れそうだし――ふとんもあったんでしょ? よし、決定。ここは私の領土にするわ」
アスカは勝ち誇ったように宣言する。
「もちろん――発見の労をねぎらって、バカシンジの滞留も許可してあげる。感謝しなさい」
太陽が傾きかけていた。
その家には、もしかしたら女の子も暮していたのかもしれない。箪笥には、女物の服が残されていた。それも、アスカと背格好が同じくらいの。
「プラグスーツをいつまでも着ているわけにもいかないもんね」
アスカはそう言って、箪笥のなかを引っかきまわしはじめた。
ぼくも、べつの箪笥にしまわれていたシャツとズボンを借りることにした。ただ、これは大人用のものらしい。ぼくには少し大きかった。それでも、裾を折ればなんとかならないこともない。たぶん、この服の持ち主はそんなに若い人ではなかったのだろう――そんな気がした。
間取りはシンプルだった。玄関から入ったところが台所兼食堂、その右手にトイレと風呂がある。トイレはなんと汲み取り式で、風呂も薪で焚くようになっていた。左手側が八畳ばかりの和室になっていて、そこには濡れ縁がついている。その奥側が納戸というか、箪笥部屋というか、ものがいろいろと詰め込んであった。
暗くなりきる前に、井戸から汲み上げた水を浴槽に張り、薪をくべて風呂を沸かすことにした。薪はむろんのこと、焚き付け用の新聞紙さえ用意されていた。
「バカシンジ! ちょっとぬるいわよ!」
浴室の窓からアスカが注文をつける。ぼくはそちらは見ないようにして、もくもくと火口を監視する。いったいどれくらい燃やせばちょうどいいのか、ちっとも見当がつかない。それに煙たいし、熱い。ここの住人は毎日、こんな苦労をして風呂に入っていたのだろうか? だが、文明が滅んでしまった今となっては、蛇口をひねるだけでお湯が出てくるような快適な生活は成立しない。
浴室内から、アスカの鼻歌が聞こえてくる。機嫌は悪くなさそうだ。
しばらくして――鼻歌がとだえた。かわりに、しゃくりあげる声が聞こえてくる。
アスカが泣いている。
ぼくは立ちあがって、窓から中を覗きこんだ。
「アスカ――どうし……」
「見るな、バカーっ!」
ばしゃっとお湯を引っかけられた。
アスカが出たあと、ぼくは浴室に入った。
ぬるくなった浴槽に身体をしずめる。
アスカが浸かったお湯――他人の身体の汚れを溶かしているはずなのに、汚いとは思わなかった。むしろ、お湯が肌にやわらかく感じる。
ミサトさんのところで一緒に暮しているとき――アスカはもっぱらシャワーだった。風呂の湯を共用するなんて気持ち悪いと公言していた。洗濯も別々、ぼくの下着と一緒に洗われるなんてまっぴらだと言っていた。
アスカにとって、ぼくはそういう存在なんだ。わかってる。
だから、期待したりしてはいけない。
風呂からあがると、濡れ縁にアスカがいた。紺地に赤い花模様の浴衣を着ていた。箪笥の奥から見つけだしたらしい。うちわを持って、ゆっくりとあおいでいる。
そのうなじの後れ毛が風にそよいでいて、ぼくは息を飲みこんだ。
「もう、空、暗いわね」
視線をあげながら、アスカは独り言のようにつぶやく。
ぼくも空を見る。星がたくさんまたたいている。
「ね、こんなの見つけたのよ」
こんどは、はっきりとぼくの方を向いて、アスカが言った。手のなかには、棒状のものが握られている。線香花火だ。
「箪笥部屋にね、おもちゃばこがあって、このほかに人形とかも入ってたわ。なぜか、みんな古いの。不思議ね。この家では、ずっと時間が止まっていたみたい」
そうかもしれないと思う。この家は、まるで過去の思い出を積み重ねて造られたみたいだ。未来のためではなく、過去を思いながら過ごしていた人の、かなしい匂いがする。
ぼくとアスカは庭にしゃがんで、花火に火をつけた。
しけっているかと思ったが、線香花火はオレンジ色の光の玉をぶらさげて、かすかに火花を散らしはじめた。
ちりちりち。
ちりちりち。
アスカは無言でその光を見つめていた。アスカの顔がゆらめく橙の光に照らされて、闇から浮かびあがる。
火花が小さくなる。光の玉が一瞬大きくふくらみ――そして落ちた。
「終わっちゃった……」
アスカがため息をついた。
「シンジ……そろそろ寝よっか」
「わかってると思うけど、あんたはそっちの部屋ね」
アスカは箪笥部屋を指さした。ぼくはうなだれて、それにしたがう。
人類はひとつに融合しても、蚊はそこからあぶれたようだ。貴重な栄養源をもとめて、金属的な羽音を鳴らしてまとわりついてくる。それに対処するための道具として、この家では蚊帳を用意していた。
こうした道具の使い方というものは、なんとなくわかるものだ。まるでシェルターのように頭上に蚊帳を広げ、ぼくは箪笥部屋で、アスカは八畳の和室で、それぞれ横になった。
寝苦しくて、眠れない。
箪笥部屋は、ふすまを締め切ると、ほとんど蒸風呂状態だ。
この世界では戸締まりは不要なのだから、開け放った濡れ縁から吹きこんでくる風で、隣の和室はさぞ涼しいだろうと思う。
耐えられなくて、ふすまを開いた。すう、と風が吹きこんでくる。ほっとして息をついた。
どうやら月夜らしい。濡れ縁に銀の光が反射している。
その光で、和室の中央に蚊帳があるのも見えた。
どきり、とする。
蚊帳のなかが透けて見えている。アスカが眠っているのがわかる。掛け布団は蹴っ飛ばしてしまったのか、無防備な姿をむきだしにしている。こちらに背を向けるようにして、丸まって寝ているようだ。浴衣の裾が乱れて、太股が覗いている。
記憶がよみがえった。病床についたアスカに対してぼくが行なった凌辱の――記憶だ。直接アスカの肌には触れていなくても、あの時、たしかにぼくはアスカを犯してしまった。自分の妄想のなかで。自分にとってのみ都合がいい、幻想の世界のなかで。
反射的に右手の匂いをかいだ。ねっとりとした体液の感触さえ思い出せる。
だめだ。ぼくはだめだ。やっぱり、そんな資格はないんだ。
逃げだしたい――!
この家から
アスカの前から
ぼくはたまらず、部屋を這い出していた。アスカを避けて、跛行する。縁側に出た。
庭の菜園が、月光に濡れたように照らされている。
ふと、悟った。
この家は隠れ家だったのだ。
ある男が、ある少女の思い出を、大事に保存しておくための。
タイムカプセルのような――ものだったのだ。
少女の記憶とともに生きるために、男はさまざまな準備をしたのだろう。
その男も、もしかしたらLCLの海に呑まれる瞬間に、懐かしい少女と再会できたかもしれない。そうであってほしいと思った。
だが、ぼくはここに留まっていることはできない。ひとりにならなければならないのだ。誰かと一緒にいようとするのは間違いだったのだ。
ぼくは卑怯で狡くて、どうしようもない人間だ。この世に、たった一人しかいない他人すら直視できない――それほどに。
ここから立ち去ろう。はやく。
ぼくは裸足で庭におりた。
「どこへ行く気?」
背後から声がした。
濡れ縁に、アスカが立っていた。
ぼくは答えられなかった。ただ黙っていた。
「また、逃げる気?」
アスカが鋭い声で訊く。それから、ふっと声をゆるめた。
「ちがうか……この前逃げたのは、私のほうだったっけ」
「アスカ……」
「すべてがいやになったの。あんたに負けて、ファーストに負けて、ミサトにも負けた。カジさんはどこかに行ってしまった……私のいるべき場所なんてどこにもないと思った」
アスカは淡々と言葉をつづけた。
「でもね……違ってた。弐号機のなかで、ママに逢ったの。ママはずっと私を見ててくれていた。守ってくれていた。だから、エヴァシリーズとも戦えた――けっきょく負けちゃったけど――あの高揚感、あの幸福感はウソじゃない。偽りの復活ではないわ」
ぬか喜びと、自己嫌悪の繰りかえし――でも、そのおかげで前に進めたような気がする――
「シンジはどうなの? シンジにとっての初号機も、『おかあさん』だったんでしょ? おかあさんとひとつになることもできたんでしょ? どうして、そうしなかったの?」
ぼくは月を見あげた。満月には少し足りない、あるいは少し過ぎてしまったのか、歪な銀盤。その上に、小さな黒い十字架が浮かんでいるように思った。もしかしたら、あれは方舟になった母さんなのかもしれない。
ぼくは、自分の意志で母さんに別れを告げたんだ。
月光に照らされて、アスカがひっそりと立っている。浴衣の衿が乱れて、彫りの深い鎖骨があらわになっている。きれいだ、と思った。
「ぼくは……」
アスカに――逢いたかったんだ。
そう言いたかった。でも、言葉がでてこない。言わなくちゃいけないのに、言えないんだ。
「世界には、私たちふたりしかいないのに――意気地がないのね」
アスカはぼくを見ていた。くすっと笑う。
「いいわ……今夜は特別に、魔法をかけてあげる」
しゅる――しゅる――
帯がすべる音がした。ほどけていく。
アスカの肌が晒されていく。まるでさなぎから生まれる蝶のように、月光のなかにアスカの裸身が浮かびあがる。
ふくらみかけの胸と、張りだした骨盤の陰影が、アスカの「女性」を感じさせる。だが、成熟にはまだ遠い。
ぼくと同じ14歳の身体――いまも成長しつづけている、どこかアンバランスな――あやういかたち。
「アスカ……」
「じろじろ見ないでよ。恥ずかしいんだから」
アスカは胸元を隠した。怒ったように言う。
「私にここまでさせたんだから、あんた、覚悟はできてるんでしょうね」
「うん」
ぼくはうなずいて、アスカに近づいた。
拒まれたらどうしよう、とか、失敗したらどうしよう、とか――弱気にさせる要素はいくらでもある。
それでも、他人の存在を認めなくちゃ、自分が自分でいることはできない。だれかのことを好きでいられる自分を受け入れる――それくらいには強くなりたい。
「好きだ、アスカ」
「そんなこと、知ってたわよ」
吐き捨てるように言いながらも、アスカの声もうわずっている。
濡れ縁にあがって、アスカに触れられるほど近づくと、その体温を感じることができた。アスカの髪の匂いも――
裸の肩にふれる。ぴくん、アスカが震える。
ぼくたちは、これからどこへ行こうとしているんだろう。
世界の終末のあとにおとずれた、ぼくたちの最初の夜は、まだ始まったばかりだった。