白い息を吐きつつ、暦は冬の繁華街をよたよたと歩いていた。智の身体を支えているからどうしてもそうなる。
智は小声でなにか呟いては勝手にケタケタ笑っていた。ちょっぷ、ちょっぷ、ちょーっぷなどと口走ったりもする。楽しそうだ。
クリスマス前の喧噪のなか、通りはカップルたちであふれかえっている。暦は空いている左手の指でついっとメガネのフレームをあげた。
(なにやってるんだろう、私)
つい考えてしまう。
(高校の時と、なにひとつ変わらないじゃないか)
はしゃぎまわる智に引っ張りまわされて、自分を見失ってばかり。ふと気づくと、周囲に取り残されたような気がして、あせる。あせってはミスる。その繰り返しだ。
考えてみればずっとそうだ。中学のときも――小学校のときも。
暦の近くには常に智がいて、なにがしかの騒動を起こしていた。暦はいつもそれに巻き込まれ、いつしか関係者になっていた。
(私は距離を取ろうとしていたのになあ)
優等生を演じることのできた暦にとって、智は最も苦手なタイプだった。あけすけで無神経で衝動的――危なっかしくてしようがない。暦も、そんな智を放置すればよいのだが、どういうわけがそれができずに今に至る。
と。
智が身体をおしつけてきた。あたたかくて、やわらかい。そして、いい匂いがする。あからさまな香水ではなく、ほのかなピーチ系のコロン。今日の智は化粧までしている。シンプルなチークと唇へのメイクだが、それでも、「あの智が」とあらためて驚いてしまう。
(彼氏がいるって話だから、これくらい当然か――)
そう考えると、智は変わったのだ。この数カ月で。
(私は変わらないのにな)
女子大生にはなってはみたが、べつだん成長した気はしない。あしたからだって、高校の制服を着て登校できる自信がある――制服が入れば、だが。
「にゃもちゃん、ゆかりちゃん、やっぱ、オトナはエロエロっすね〜」
酔っ払いが暦の耳元で独演会を続けている。
どうやら、仕事の都合で今夜は参加できなかった恩師たちと、エロ話をしているつもりらしい。
「にゃもちゃんの言ってたアレ、わかったよ! アレっておもしろいねえ、形とかー」
(アレって……男の人のアレのことかな)
暦の鼓動が早まる。高校時代はそれなりに耳年増だったが、いまだに実践がともなわない暦にとって、アレは、もやもやっとした「何か」にすぎない。いや、むろん父親のは見たことがあるが、それは数のうちには入らない。
「にぎにぎしたら、こーんななって、もう、どばっと!」
「おい、智、いいかげんにしろ! 往来だぞ」
暦は注意した。
「なんだよ、よみ、おまえだってワイ談好きじゃん! あたしはにゃもちゃんとオトナの話してるんだからっ!」
ろれつも怪しく智が大きな声をだす。まわりのカップルたちが物珍しそうに二人を見る。暦の顔が熱くなった。
あいにく空車のタクシーもやってこない。
「智、こっち」
「おお?」
暦は智を引きずって横道に入った。大通りでこれ以上ワイ談をされるのはかなわない。
通り一本入っただけで雰囲気が一変する。寂しい感じの細い道で、目立たないスナックの看板がぽつぽつあるくらい。
「まいったな。大きな通りに出られるかな」
とにかく、タクシーを拾わなければならない。学生にはたいしたぜいたくだが、この状態の智を街に放つわけにはいかない。
しばらく歩くうちに、智が無口になった。
騒がない智は異常である。暦は心配になった。
「おい、智?」
智の顔が真っ青だった。
「き……きもぢわる……」
「な、なに?」
「は……はぎぞう」
すぐにも身体を折ってげろげろやりそうだ。
暦はあわてた。
「ま、まて! がまんしろ!」
「でぎない……」
智の目に涙が浮かんでいる。暦につかまる手が震えている。まずい、これはまずい、と暦は考える。今日着てきたコートは家庭教師のバイト代を二カ月ぶんためてやっと買ったものだ。ということは、智は確実にこのコートを汚すだろう。間違いない。カレーうどんの汁をはねさせずに食べることは、智にはできないのだ。
なぜそういう結論に至ったかはわからないが、暦は瞬時にそう考え、とにかくトイレに智を押し込まなければと結論づけた。
「智、すこしだけ頑張れよ!」
暦は智の手をひいて、植え込みに隠された入口に飛び込んだ。
とりあえずトイレがある場所――それしか考えていなかった。
「――私は、いったい、なにを考えていたんだ……」
暦は大きなベッドに腰掛けたまま、頭を抱えていた。
「おーい、よみ、こっちきてみー! でっかい風呂があるよー!」
すっかり元気になった智が手まねきしている。
暦が智を連れて飛び込んだのは――ラブホテルだった。たしかに個室でトイレもある。あるが、これはどうしたことだ。
(ま、まさか、初ラブホが智といっしょとは――)
智はひと吐きするとケロっと治ってしまい、それからは部屋の装備をひとつひとつチェックしはじめた。
「おおっ、カラオケもあるぞ。歌ってく?」
「あのなあ、智……私はいまそんな気分じゃないんだ」
「どうして? ここに私を連れ込んだのはよみじゃん」
「連れ込んだゆーな!」
暦はベッドをバンとたたいた。
「気分が治ったんなら、帰るぞ!」
怒りに任せて立ち上がる。
「えー、もったいないじゃん。二時間ぶん、お金払ったんでしょ?」
目を丸くする智。マイクを持って、すっかり遊ぶ気だ。暦はため息をついた。
「二時間もこんなところでなにするっていうんだ?」
「んー、えっちとか?」
暦はコケかけた。
「ば、ばか! 私たちは女同士だぞ!」
「しってるよ」
智は普通に真顔だ。
「よみは女。私も女。だから?」
「だ、だから?、って……智、おまえ、おかしいぞ」
「そうかな……せっかくだから、お風呂入っていくね」
智はさっさと服を脱ぎだした。暦は思わず目をそむけた。なぜだ。智の裸なんて、見飽きるほど見ている。小学校からいっしょだったのだ。体育の着替えや、修学旅行のお風呂、仲良しグループでのお泊まり会でも――
だが、ラブホテルの室内のけばけばしい調度のなかでは、その裸身が驚くほどなまめかしく見えた
男の子のようだった胸も、今はお椀型のふくらみとなり、小さめの乳首が色づいている。腰は意外なほど細くくびれ、スリムな下半身にもメリハリを与えている。
抜群にスタイルがいいといいわけではない。むしろ平凡なのかもしれないが、智の持つ溌剌さがいい意味で裏切られるような、女らしい身体だった。
「こんなとこで脱がなくったって……」
顔が赤らむのを自覚しながら、暦は小さな声をだした。
「べつにいーじゃん。どうせ、ここのお風呂、部屋から丸見えだし」
智はにやにや笑った。たしかに、この部屋の風呂場はガラス戸が透明になっている。
「じゃ、いってくるね。よみもよかったら入りなよ」
言いつつ、智は風呂場に移動した。かけ湯の音が聞こえる。
「おおおお、ジェットバスだああ」
などと声が聞こえてくる。目をあげれば裸身の智も見えるのだが、それをすることができない。
鼓動が早まって、息が苦しい。酔いがいまさら回ってきたのだろうか。
暦はベッドに横たわった。天井に鏡がある。なんのための鏡だろうと漠然と考え、このベッドの用途を思い出した。
裸の智が見えた。
しなやかにSの字を描く智の身体に、浅黒い肌の見知らぬ男がのしかかっている。
幻影だ。わかってる。でも。
智の表情が喜悦に歪んでいる。たぶん。そんなふうな智の顔は想像のなかにしかない。エッチな顔。
(いやだ……)
暦は目を閉じて息をとめた。
(智……そんな男と、そんなことするな……)
「よみ〜、いいお湯だよ〜おいでよ〜」
能天気な智の声。暦は、がば、と起き直った。
「いま、いく」
返事をしていた。