2002年――冬。
東京、某所。
毛糸の帽子から髪をのぞかせた女の子が、大きな目を上下に動かして、手にした地図と実際の市街を照合しようとしている。
「えーと……ここなんやろかー」
白い息を吐きながら、ゆったりとしたイントネーションの独り言をもらす。どうやら待ち合わせ場所をさがしているようだが、いまひとつ自信がないらしい。
「あー、わからへんなあ……ともちゃんと一緒に来たらよかった」
「よっ、大阪」
背後から快活に声をかけられる。ふりかえった女の子は、そこに立っている二人連れを見て、ホッとしたような表情になる。
「あー、神楽ちゃん、ひさしぶりー……榊ちゃんもー」
冬だというのに小麦色の肌をしたウルフカットの少女と、もう一人はモデルかと見紛う長身の女性――少女と呼ぶには少々迫力がありすぎる――が、並んで立っている。
「榊ちゃん、いつこっち戻ってきたん?」
「昨日……」
外見には似つかわしくない気弱げな口調で、ロングヘアの美女は答える。
「ピカニャーはどないしたん? 連れてきてへんの?」
「マヤーは大学の先輩に……。長い移動とかさせると、あまりよくないから……」
「それでこいつ、昨夜から元気ないんだぜ。何回も電話して、マヤーの様子きいてるし」
豪快に笑いつつ、神楽が榊の背中を叩く。
「それとも、『先輩』と話したかったのかな? あれ――男だろ?」
榊が慌てる。
「ち、ちがう」
「まあ、そういうことにしとこう」
神楽がすまし顔になる。どうやらいろいろ情報を握っているらしい。
そんなふたりをよそに、大阪はポーッとしつつ、いちおう時間を気にしているらしい。
「よみちゃんたち、まだかなあ……」
「うーん、どうかな。ちよちゃんを迎えに行ってから来るって言ってたけど、飛行機がちょっと遅れたとか……」
そこに、聞き間違えようのない、やかましい声が鳴り響く。
「ジャーン、おまえたちーっ!」
絶叫とともに、野球帽をあみだにかぶった少女が現れる。スタジアムジャンパーにジーンズといった、男の子のようなスタイルだ。それでも、帽子からのぞく髪の毛は一時期よりも伸びたようだ。
「おっ、出たな」
神楽が腕を突き出して、ともを迎えうつ。腕をぶつけあって、彼女ら式のあいさつをする。
「ともちゃんやー。あ、よみちゃんも――」
「ひさしぶり」
シックなコート姿のよみが片手をあげる。足許は黒のショートブーツだ。ストッキングも黒なのは、もしかしたら脚を細く見せようという工夫なのかもしれない。
「あれー、ちよちゃんは?」
「えへへ〜」
よみの陰からはにかんだように現われたのは、ダッフルコートに身体を包んだ小柄な少女だった。
「空港から直接来ちゃいました。荷物はおとうさんに頼んで」
お父さん……と榊がつぶやく。
「わー、ちよちゃん、背え伸びたんとちゃう?」
大阪が、ちよの頭に手を当てて、自分と比較する。まだちよのほうが低いが、かなり差はちぢまっているようだ。
「えへへー、そうですか?」
「アメリカは食べ物いいからな。肉ばっか食ってるんだろ。よみが行ったら、あっという間にデブっちゃうな」
「うるさいな」
ともの軽口によみが敏感に反応する。
「なにはともあれみんな揃ったことだし、再会を祝して今日は飲み会だぁー!」
ともが拳を突きあげた。
『カンパーイ!』
六つの声がハモり、グラス同士がぶつかる高い音がそれにかぶさる。
「それにしても、いいのかな、お酒。いちおう、法律上は未成年だぞ、私たち」
カンパリソーダのグラスを手に、よみが笑いを含みつつ言う。その肩にぶつかるようにして、ともが声をはりあげる。手にしたジョッキの中味は、すでに半分だ。
「問題ないって! 私たち、ジョシダイセーなんだし! ただし、ちよすけは別だけど」
「わかってます。それに、お酒なんて飲めませんよ」
ひとりだけジュースのグラスを手にしたちよが、ちょっぴりふくれかげんで答える。
「あー、なんや、これ、炭酸やー」
琥珀色のカクテルを口につけて、大阪がしくじった、という表情を浮かべる。
「これなんてお酒やったっけー、えーと、シンガポール・サスペンス……」
「シンガポール・スリング」
榊が短く訂正する。
「あ、そーや、スリルとサスペンスのスリルのほうやった……榊ちゃんはなに飲んでるん?」
「これは梅酒」
「あいかわらず渋いな、榊は」
そう言う神楽はサワーだったりする。いかにも体育会っぽい。
「わー、神楽ちゃん、もうそんなに飲んだん? 強いなあ」
「うちは先輩が厳しいからなあ。部内の飲み会だったら、焼酎をストレートで飲んだりするんだ」
「なにーっ、飲み比べだったら負けないぞぉっ!」
会話に割って入りつつ、ともがジョッキを一気にあおる。
「おいおい、強くないくせにガバガバ飲むなよ」
よみが眉をひそめて注意するが、むろん、ともは聞き入れない。
かくして酒盛りは始まった。
まずはちよのアメリカ生活について、質問が飛び交った。そして、国内側の近況報告――それはおもに帰国したてのちよに対しておこなわれた――に移る。
「でさー、なにが一番おどろいたかってゆーと、かおりんだよなー」
早くも酔いがまわってきたらしいともが話を振る。
「あ、そうそう、あれはビックリしたな」
焼き鳥を串から抜いてバラバラにしつつ、よみが応じる。大阪や榊、神楽も一様にうなずく。
「え、かおりん、どーかしたんですか?」
事情を知らないちよが心配そうに質問する。
「それがさあ……結婚したんだよ、あいつ」
「えーっ!?」
ちよは絶叫した。
「しかも、相手が……」
暗い顔でよみが続ける。
「あの、木村だからなあ……」
「えええーっ!?」
ちよはさらに声を張りあげた。
「どっ、どーしてっ、そんなことにっ!?」
「ほらー、かおりん浪人してたろ? で、木村が家庭教師みたいな感じで、かおりんちに出入りするよーになったんだって。最初は木村が押しかけてたらしーんだけど」
ともの言葉に、ちよは真剣な表情で聞き入っている。
「なぜかかおりんの両親が木村のこと気に入っちゃって、のべつ入り浸るよーになって……ある日、とーとー」
「とーとー?」
ちよが唾をのみこむ。
「デキちゃったんだって」
「でっ? できたって、な、なにがですか!?」
「これだよ、これ」
よみがお腹の前でカーブを描くように手を動かした。ちよは撃たれたように硬直する。目が白くなっている。
「赤ちゃん!?」
ちよを除く全員がうなずく。
「でっ、でもっ、木村先生には奥さんも娘さんも……」
「離婚したらしーよ」
「そ、そんな、あっさり」
「それがまた男らしいって、かおりパパもオッケーだったらしい」
「もはや洗脳だな」
よみが言葉をはさむ。
ちよはしょげかえった。
「奥さんと娘さん……かわいそうですねえ……」
「いや、それが、まだ話には続きがあって」
ともが声をひそめる。
「なにしろ、かおりんお腹おっきいだろ? それに、受けるかどうかはともかく、いちおう受験勉強も続けてるんだ。となると、家事もなにもできないから――」
「えっ……まさか……」
「前の奥さんも娘さんも、同居してるらしーよ」
ガガガーン、という感じでちよがふらつく。
「なんでも、奥さんも納得してるとか。籍とかにはこだわらないんだって。木村と一緒にいられたらそれでいーらしい」
「私には理解できないな」
よみが腕組みしつつ、つぶやく。うんうん、と一同うなずく。
「でも……それで、かおりん、幸せなんでしょうか……?」
ちよが泣きそうな声で言った。実際に目がうるんでいる。
「それがさー、かおりんも意外にケロッとしててさぁ」
ともが頭の後ろで手を組んで身体をそらした。
「なんか、凄いらしいよ、木村のアレ。その話するときのかおりん、とろけそうだったし」
ちよを除く全員が顔を赤くする。きょときょと、ちよは周囲を見まわした。
「え? アレって……? 榊さん、アレってなんですか?」
「いや……私は……まだ……してない」
顔を朱に染めた榊がイマイチずれた返答をする。
「ちよすけはアメリカでなにを学んできたのかね? アメリカっていえば、アッチ方面でも先進国でしょーに」
ともチョップがちよに飛ぶ。あたっ、と言いつつも、ちよには意味がわからない。
「そういうともはどうなんだ? 安全装置が壊れて、暴走してるんじゃないのか?」
「おっ、よみ、気になる? 私の華麗なるキャンパス・ライフが」
「大阪からちょくちょく聞いてるよ。ひどいらしいな」
「そーなんやー、ともちゃん、三股とかかけてるねんでー」
ともと同じ大学に通っている大阪が証言する。
「ばかだなー、大阪。いい女かどうかは、いかに多くの男を狂わせられるかで決まるのだよ」
「ともちゃん、悪女や」
大阪がぽつりと言う。その隣に座っていた神楽が上半身を心持ち乗り出した。
「おっ、おい、とも……じゃあ、おまえ……しちゃったのか?」
「さすが体育会系、質問がストレートでガサツだな」
「どうせ私はガサツだよ。で、どうなんだ?」
「なんか興味シンシンって感じだけど、神楽のほうこそどうなんだよ。体育大学って、男も筋肉ムキムキ系ばっかなんだろ?」
「そりゃあ……そういうのも多いけど……」
神楽の視線が宙をさまよう。男子学生たちを思い浮かべているらしい。
「体育大生同士のアレって、なんか凄そうだな〜。野獣同士の交尾みたいな感じで」
ともは、がおー、ごあー、と言いつつ、両手で人間を模して卑猥に組み合わせる。
神楽の耳たぶまでが茹で上がった。
「やっ、やめろよ、そーゆーのはっ」
「獣っていえば……榊ちゃんは? 獣医になろうって男は、けっこー金持ちとか多いんじゃない?」
ともは、さっさと神楽を放り出して、新たな獲物をつかまえる。
「え……」
「それに、一人暮らしだし、やりたいほーだいじゃん」
「私は……」
榊はちょっとだけ遠くを見つめるようにする。
「いまはマヤーと一緒にいられるだけでいい。それに、獣医になるために勉強しないと」
「憧れの先輩はいるみたいだけどな」
神楽がチクリと一刺しする。
「ばっ……やくそ……」
ばか、それは言わない約束だろ、と言いたかったようだが、榊の言葉は途中でひっかかった。
みんなの視線が集まってきている。
「それはちょっと聞き捨てならないな」
よみのメガネがキラリと光った。
話題は二転三転し、酒の量が進むほどに、さらに際どい話になっていく。
高校時代は漠然とした想像でしかなかった大人の世界の話柄を、ある程度、実体験として語れるようになった楽しさが、さらにみなの舌をなめらかにしていた。
さらには、調子に乗ったともがちよに酒を飲ませはじめるにいたって、場は危うくなっていく。
「はへえ……これは美味しいですねえ」
「ケーカチンシュとかいうらしいぞ、もっと飲め!」
「いただきますっ!」
なぜか敬礼してから、ちよはともの杯を受ける。
良い加減にできあがった一行は、カラオケボックスに場所を移し、さらに遊んだ。
そのなかでも、ともは暴れ続け、飲み続けて――ついに潰れた。
「あーあ、しょうがないなあ」
よみがともの肩を支えながら、呆れたように言った。
ともは子供のような表情で寝息をたてている。
「ごめん、ともを送って行くから、私はこれで」
「えー、いま、よみちゃんがリクエストした曲、入ったとこやのに」
「じゃあ、歌ってから行こうかな」
「よ、よみさん、お休みなさい」
ちよがあわてて手を振る。ジャイアンズ・ソングを避けたいという気持ちからかもしれない。
よみがともを引きずるようにして出ていってからしばらくして、今度は榊が立ち上がった。
「ごめん……マヤーが心配だから、そろそろ」
「じゃあ、私も。榊、うちに泊まってるから」
神楽も席を立った。
「え……もうお開きですか……?」
ちよが淋しそうに声をあげる。
大阪が、『大阪で生まれた女』を熱唱しているあいだに、榊と神楽は帰ってしまった。
ボックスに大阪と二人残されて、ちよは肩を落とした。
「今日、お泊まり会にすればよかったです」
「まあ、みんな、いろいろ予定とかあるしなあ……。でも、ちよちゃん、まだ日本にしばらくおるんやろ? また集まったらええやん」
大阪が慰めるように言った。
「今夜は私がトコトンつきおうたるから。おねえさんにまかしときなさい!」
「おおさかさあ〜ん」
酔っぱらっているちよは大阪の薄い胸にすがりついた。
そこに、イントロがかぶさってくる。
「あ、また私や」
大阪はちよを振り落とす。曲は、『悲しい色やね』だった。