うたかたの天使たちXI

秋風の十字路

 

-珠子編-

 

 ぴちょん、ぴちょん――

 そこかしこから水音が聞こえてくる。

 地下道には湧き水がつきものだ。壁は水で濡れそぼり、足元のあちこちに水たまりができている。

 空気はムッとするほど熱く、汗ばむほどだ。

 どのくらい歩いたろう。

 さいわい、珠子が走り去った方角に別れ道はなく、一本道に進むことができていた。

 それにしてもなんて地下道だ。いくら進んでもきりがねえ。まさか、東京中に広がってるんじゃないだろうな?

『それはわらわにもわからぬ。じゃが、公方さまがもしものときにお使いになる抜け道でもあったということなれば、江戸城の本丸につながっていたのは間違いない』

 ってことは、今でいえば皇居かよ。たのむから、そっち方面には話を振るなよ、作者……

『あやつは意気地なしだから、その気遣いは要るまいぞ』

 知り合いかよ!

 まあ、おれも知り合いといえば、知り合いだけど。

 それにしても。

 そろそろなにか起こらないとやばいよな。

 と、思ったら、てきめん。

 声が聞こえた。

 女の子の声だ。悲鳴らしい。

 おれの脳裏に、裸に剥かれた珠子が悪の首領に捕らえられ、荒縄で縛られつつ天井から吊り下げられ、三角木馬で責められながら、極太バイブを前後の穴に突っ込まれ、ロウソクを垂らされつつ、ムチでしばかれている姿がよぎった。

『そこまで念入りに想像せずともよい。おぬしは、そんなに珠子をいじめたいのかや?』

 いや、そうでもないんだが。

 しかし、頭のなかで考えたことにいちいち突っ込んでくれる幽霊ってどうよ? 一人称小説だと便利なような気もするな。

『ほほお、では、これからは珠子ではなく、おぬしに取り憑くことにしようぞ』

 いや、それはやめて。おねがい。

『で、あれば、もそっとまじめにせよ。いまの声がほんとうに珠子の声であったらなんとする』

 そうだな。はやく助けてやらないと。

 おれは声が聞こえてきた方角に向かって足を急がせた。だが、ここにきて、道が異様に枝分かれしはじめたのだ。行く手に三つも道があったりとか。上下に分かれていたりとか。

 やばい、うかつに踏み込むと、迷うぞ。

 また、かすかに声が聞こえた。泣いているようだ。

 くそっ! このままにしておけるか。

 おれは声が聞こえてきたような気のする穴に、思い切って踏み込んだ。

 だが、声があちこちの壁に反響して、いろんな方角から聞こえてくる。たちまち方向感覚を喪失する。

 もうやけのやんぱちという感じで、穴という穴に突っ込んでいく。男らしいぜ、われながら。

『愚か者、それは方向音痴というのじゃ。みよ、もう迷うてしもうたではないか』

 呆れたような珠姫の声が頭のなかに広がる。

 たしかに、どうやってここまで来たのかさえ、すでにわからない。

 女の子の声も聞こえなくなってしまった。

 すこし焦ってきた。引き返そうとしてみたが、まったく見覚えのない場所に出てしまい、さらに状況が悪化。

 そして、ついに袋小路に突き当たってしまった。

「なんだよ、いったい……」

 おれは地下道の壁によりかかった。もうへとへとだ。

 このまま出られないのではないか、という恐怖が湧きあがってくる。

『ともに幽霊となって、この世をさまようか……それもよいかもしれぬのう』

 まんざらでもなさそうな口調で珠姫がいう。め、めっそうもない。

 おれはよりかかっていた壁から身体を離し、あちこち調べる。

 なんとかして、脱出の糸口を――と思ったとたん、壁の一部が四角く開いた。

 やはりここは人工の抜け穴だったんだ、と、いまさらながら気づかされる。設けられた目的は不明だが、どうやらこれはのぞき窓らしい。

 おれは穴の向こうを覗いてみる。ほのかに明るい。広めの部屋があるらしい。

 その奥に――

 おれがいた。

 

「泣いても、むだだ」

 おれの顔をした男が、すごみをきかせて言った。

 手には特殊警棒ってやつか、伸縮自在の金属棒をもっている。

「おれから逃げることはできないぞ。あきらめるんだな、ふふふ」

 男の視線の先には毛布にくるまった少女がいた。長い髪をおさげにしている。うぉ、けっこう可愛い子だぞ。

 女の子はおびえたようにかたまっている。縛られたりはしていないようだが、相手は大人の男だ。抵抗のしようもないのだろう。

「まさか、警察も、公園の地下に、こんな迷宮があろうとは想像もしていまい。おまえは、ずっとこのまま、おれのトリコなのだ」

 なるほど、警察が犯人を見失ったのは、この地下道が見つけられなかったからか。おそらく、公園のどこかに秘密の出入口があるのだろう。宇多方家の地下道はやはり都内の至るところにつながっていたわけだ。

「おまえの親は、身代金をたっぷり用意してきたぞ。よほどおまえが大事なのだろうな。だが、おれが必要としているのは金などではない……おれがむさぼるのはおまえの幼く美しい身体なのだ」

 怪人よろしく、犯人が宣言する。やはりロリコンだったのか。

『顔だけではなく、性癖もそっくりなのじゃな』

 珠姫がつっこむ。ほっとけ。

 だが、それにしては、犯人のやつ、せりふが棒読みだな。

 よく見ると、女の子も恐怖に震えているという感じではないようだ。

「つーか、タカオ、あんた演技下手すぎ」

 イメージをぶち壊す、醒めた口調で言った。

「もうちょっと、スリルを感じさせてよね。だから、あんたはダメなのよ」

 すげーだるそーな口調で女の子が言い、ひょいと肩をすくめる。

「――怪人ごっこもそろそろ飽きたわね」

 まとっていた毛布を床に敷き、転がっていたクッションを引き寄せて、腹ばいになる。ポテチの袋に手を突っ込むと、パリパリやりだす。

「にしても、なんなのよ、うちのくそおやじ。なんで、あたしの身代金がたった五千万ぽっちなの? むかつく!」

 憤懣やるかたないように、吐き捨てた。

「だって……金額は指定しなかったし……す、すごい額じゃないかなあ」

 男が言った。うってかわって弱々しい口調だ。

 それに対して、女の子は激しくやりかえす。

「来たの代理じゃない、代理のハゲ専務! 植え込みから見てたけど、しらけるっつーの。おやじのやつは会議に出てたってゆーから、驚き。だったら、せめて一億はつつんでもらわないと、ねえ?」

「でも……これからどうするの? 警察はずっとこのあたりを探してるよ」

「ふん、この地下道はあたしが子供のころから秘密基地にしてたんだから。大人になんかみつかるわけない」

 女の子は自信たっぷりに言い切った。

「でもなあ……こんな大騒ぎになっちゃったし……」

「そんなことより! もうお菓子がないわよ。あと、ジュースも! マンガとゲームソフトも買ってきて」

 押しかぶせるように女の子が命令する。

「で、でも、外に出たら、ぼく……」

「あたしに行けっての!? とっとといってきなさいよ! 変装でもなんでもすりゃいいでしょ!」

「わ、わかったよ、暁美ちゃん……どならないでよ。すぐ、行ってくるから」

 男はおもねるような表情で急いでそう言うと、そそくさと出て行った。

 残された女の子は寝っ転がって、読んでいたマンガ雑誌を壁に叩きつけた。

「あーっ! いらつく! なんなのよ、あの優柔不断男!」

 スカートを気にする様子もない。白パンが見えるくらいに足をじたばたさせた。

「パパのばか! タカオのいくじなし! みんな、しんじまえ!」

 むー、ヒステリーってやつか。

 しかし、狂言誘拐だったとはな。どうりで身代金の額をきちんと指定しなかったり、不自然な点が多かったわけだ。

 それにしても、ふざけたわがまま娘だ。あの、おれに顔が似たタカオって男のほうがむしろ被害者じゃねーか。もしも警察に捕まったら、営利誘拐犯として扱われ、人生終了だぞ?

 このままにはしておけない。説教だ。

 おれは、のぞき窓から身を乗り出し、怒鳴りつけようとした。

 そのとき、どこかを押してしまったらしく、つつつつ、と漆喰の壁が動いた。隠し扉か、と思ったとたん、おれの体は隣の部屋に転がり込んでいた。

「きゃっ! なに?」

 暁美は驚いてのけぞったが。おれの顔を見ると、またもとの不興げな口調にもどった。

「なによ、タカオ。そんなことであたしを驚かせようっての? 黒ずくめに着替えまでして、おおげさね。それよか、買い出し行ってきてよ、ほんとグズなんだから」

 あいたた、頭ぶつけたぜ。うー。うー。おれは頭をかかえてうなった。コブができたかもしれん。

「ほんとに頼りにならないわよね。あたしのこと好きだっていったくせに、あたしの欲しいもの、なにひとつもってきてくれないじゃない! この役立たず!」

 むっかー。

 おれのことじゃないってわかってるけど、やっぱり、ムッカァー!

 男に対して絶対に言ってはいけない言葉がある。

 役立たず、だと!?

 それがたとえ紛うことなき事実であったとしても、その言葉を吐いた相手には思い知らせてやらないといけない。

 そうしなければ、男は生きていけない。

 それがルールだ。

「だれが、役立たずだと、この……ガキ」

 おれはゆらぁ〜と立ち上がった。

 自分でもわかる。目がすわってる。視界がなんか狭いし。

「な、なによ」

「おれが役立たずかどうか、その身体に聞いてやるぜえぇ」

『おいおい……』

 珠姫があきれたように嘆息した。

  

つづく