もう一度背中を流した後、湯上がりの火照った身体を浴衣に包み、部屋へもどる坂道をのぼっていた。
まゆはまだぼうっとしていた。自分の身に起こったことに、まだ対処しきれていないのだ。
いく、ということを知ってしまったのだ。
たまに足元がふらついた。それを支えてやりながら、おれは自分のしていることはなんなのかと思った。
部屋にもどると、食事の支度ができていた。
刺し身がついた、お決まりの旅館の料理だ。
おれはビールの追加を頼んだ。まゆにはジュースを取った。こういうところのジュースは思わぬ銘柄のものがでてくるからおもしろい。自動販売機やコンビニでは見掛けたことのないビン入りのジュースを見て、まゆは不思議がった。
食事が終わったころを見計らってか、仲居が部屋を訪れた。食器を下げにきたのだろうと思った。
が。
「お客さまを訪ねていらっしゃった方がおられるのですが」
「え」
「神村弁護士と言われるのですが、こちらへお通ししてもよろしいですか」
血流の温度が一気にさがったような気がした。
あの弁護士が、なぜ、こんなところに。
「その人は、どこに、いるんです」
「いまはロビーにいらっしゃいますが、すぐにでもお会いしたい、と」
「ぼくたちが泊まっていることを言ってしまったんですか」
「先方さんはご存じだったんですよ。お知り合いじゃないんですか?」
おれの口調にトラブルの予感を持ったのか、仲居の口調がやや硬いものになる。相手は弁護士だ。社会的な信用は向こうの方が高い。あまりうろたえた様子を見せるのはよくない。
「わかりました。こちらから行きますよ」
おれは立ちあがった。軽く、めまいがした。
「おにいちゃん」
心配そうな顔をまゆはした。
「待っておいで、まゆ。すぐにもどってくるから」
おれはまゆに声をかけると、仲居の後に続いて部屋を出た。
ロビーとは名ばかりの、和風の部屋に置かれたマッサージ椅子に、弁護士は座っていた。おれの顔を見ると、にやりと笑う。
「お楽しみのところを失礼。食事は終わられましたかな。そのご様子だとお風呂にも入られたようだ。もう堪能されたでしょう」
「どうして、ここが」
おれは弁護士の前に突っ立ち、ひしゃげた声で言った。
「あなたも座られたら? いい? そう」
満足そうな表情で弁護士は深く腰をかけなおす。
「むろん、監視をつけていたのですよ。わたしには探偵の知り合いもいましてね。金はかかるが、今回の依頼人は経費に糸目をつけない方々でしてね」
「天野……夫妻ですか」
「さよう。天野夫妻は明日、日本を離れます。それまでにどうしてもまゆチャンを引き取りたいとのことでしてな。ただ、わたしとしても、あなたの気持ちを無視してどうこうしようとは思わない。だから、今日一日は存分に楽しんで、いただこう、と思ったのです」
弁護士はゆがんだ笑みを頬にはりつかせ、おれの目をのぞきこんだ。すべてを知っているんだぞ、と言わんばかりの目つきだ。
「まあ、今なら間にあう、引き返せますよ。勤めもおありなんでしょう。外に車があります。なに、今日中に東京にもどれますよ」
おれは無言で立ちつくしていた。ずっと尾行されていたというのか。すべてを知られてしまっているというのか。
まゆにのしかかるおれ。まゆに抱きついて泣きむせぶおれ。さまざまなおれの醜態。それを監視しつつ苦笑する男たち。報告を受けて肩をすくめる弁護士。
大切な二日間が汚されてしまった、ような気がした。
「支度をしてきます」
「おお、そうですか。あなたは利口なひとだ。そうするのが一番いいんです」
弁護士が伸びあがるようにして言う。
おれは足早に部屋にもどった。部屋に入るときに、周囲を見渡した。人影はない。しかし、監視者たちはきっとどこかにいるのだ。
和室で、まゆが待っていた。こわごわとおれを見る。
「まゆ、着替えるんだ。すぐに」
「どうするの、おにいちゃん」
「外には見張りがいる。裏から逃げるんだ」
「――うん」
まゆは浴衣を脱いだ。手早く服を身につける。
おれも急いで着替えた。もとより荷物などほかにない。
「おにいちゃん、これ」
と、まゆが四角い封筒を指し出した。遊園地で撮った写真が入っている封筒だ。
「持ってて。まゆの服、おおきなポケットないから。落とさないでね」
「ああ」
ひょいと封筒を受け取り、ジャケットのポケットにつっこむ。
靴を取りに玄関まで戻れないのがつらいが、やむをえない。どこかで買うしかないだろう。
スリッパをつっかけたままで、おれとまゆは裏の斜面に出た。
地面をスリッパでは歩きにくい。ましてや夜だ。
何度も足をとられかけた。まゆはもっとつらそうだった。
当初の計算では、斜面をおりて、それから町に出るコースをさがすつもりだった。
だが、温泉街とはいえ、田舎のことだ。ネオンがきらきらしくあるわけではない。
しかも道らしい道もない山だ。月あかりだけでは足元もおぼつかない。
じきに、場所を見失った。
困りはてた。疲労もピークだった。
手を引いているまゆの身体が重く感じられる。
「おにいちゃん……どうしよう……」
「朝まで待ったほうがいいかもしれないな」
明るくなれば、そう深山というわけでもない。すぐに道はみつかるだろう。
それに春の季節で、夜も越えられないほどの寒さではない。
おれは熊笹のしげる斜面に、ちょっとしたくぼみをみつけた。
「今夜はここで寝よう」
「熊とかでない?」
「だいじょうぶだよ」
と答えたが、確証があるわけではない。
おれはまゆの身体をだきしめて、布団のかわりになろうとつとめた。
風呂あがりの石鹸のかおりと、山の土と草のにおいが渾然としてひとつにあわさっている。
「寒いか、まゆ?」
「ううん、さむくない」
おれたちは抱きあったまま、星をみていた。都会にはありえない天幕がひろがっている。
「なんだか、ふしぎ」
「なにが?」
「そら」
まゆが言う。
「あんなにたくさん星があるなんて、知らなかった」
「宮沢賢治って知ってるか、まゆ」
「グスコードブリとか、でしょ」
「それもだけど、シグナルとシグナレスっていうお話があるんだ」
鉄道の遮断機どうしの恋物語。
最新式の遮断機のシグナルと、旧式のシグナレス。身分がちがい、身動きもできない遮断機たちの恋は、地上ではなりたたなかった。星の世界で、ふたりは結ばれたのだ――
「ふうん……星の世界かあ。まゆとおにいちゃんの星もあるのかなあ」
ふたりだけで暮せる世界が、どこかに。
「きっとあるよね。だって、あんなにたくさん星はあるんだもん」
「まゆ……」
おれはまゆを強く抱きしめた。唇をあわせる。
「ん……」
まゆは拒まない。ヒップに手をあてると、自分から脚をひらいてゆく。その部分を触りやすいように。
指が下着のなかにもぐり、柔らかい粘膜にふれる。すでに湿り気をおびたその部分は、おれの指先を包んであやしくうごめいている。
もう、その部分は子供ではない。
おれをもとめて、分泌をはじめている。
「まゆ、なめさせて」
「うん」
闇のなかでも、まゆの白い太股はわかった。無防備にひらかれたそこに顔をおしあて、舌でねぶる。
かわいいまゆのあそこ。ワレメのなかに舌をさしいれ、ヒダをなめ、吸う。
「ああ……おにいちゃん、いい」
まゆは、声をこらえない。
「気持ちいいよう、ああん」
おれは眼をとじ、舌先だけでまゆのかたちを味わった。クリトリスをしゃぶると、まゆの声がさらに高くなる。
土にまみれながら、まゆが身体をよじらせている。高く脚をかかげ、腰をなみうたたせている。
闇のなかでは、まゆの香りはさらに強くなるようだ。
おれは夢中でまゆの愛液をすすった。アヌスもなめた。おいしかった。まゆのにおいがするものなんだって美味だった。
「ああ、入れて、おにいちゃん……もう、がまんできない」
おれもだ。
いきりたち、どうしようもなくなったペニスを、おれはまゆのなかに突き入れた。
「はあああ……」
深々と差しこむ。ぴったりとヒダが吸いついてくる。それが、蠕動しているように感じられる。
まゆが腰を動かしている。自分で、快楽を求めているのだ。
おれも、激しくまゆを突く。
「あっ、あっ、あんん、あうっ」
声をたてながら、まゆが全身を動かしている。
「おにいちゃん、好きっ、好きなの……あんっ」
しがみついてくる。夢中で声をはなっている。
「おれも……あいしてる」
情熱とともに、哀しみがひろがっていく。
おれは、まゆのなかに自分の命のしずくを満たしていく。
「あああああああ……」
まゆの声が星空にむかってのびていく。
そこへ届くのがあたりまえのように。
でも。
おれはつぶやいていた。
ごめん、まゆ。あの話には続きがあるんだ。
遮断機の恋の物語。
星の世界で結ばれたとおもったのは、夢だったんだ。
目が醒めるとそこは、いつもの――
現実は味のない料理のようなものだと思っていた。
人並みかどうかはわからないけど、恋もしたことがあるし、友人もいた。
でも、じきにそれはなんでもないことのように流れさってしまうことがわかった。
なにものこらない。
なにもかんじない。
生活という名の懲役をかせられた咎人のように、おれは死なないでいたにすぎない。
それをかえたものがある。
灰色のページに朱のひと掃きをくれたもの。
それがまゆだった。
孤独な少女の魂はおれを共振させた。
まゆもそうだったのだろう。
だから、おれたちは惹かれあった。
結ばれたのは必然だ。
でも、それを現実の世界で維持するのにはむりがあった。
あと十年、時間がずれていたら、なんの問題もなかったはずだ。
なんの問題も……
レールの継ぎ目を車輪が通過する単調な響き。
聞きなれた駅のアナウンス。
何度聞いたろうか。
朝のラッシュアワーをすぎた山の手線は、春の陽射しを車内に吸いこんで、けだるさに包まれている。
向かい側に座っている老人はさっきから船を盛大にこいでいる。
まゆも。
寝息をたてていた。髪には落としきれなかった葉っぱのきれはし。
――結局、東京へもどっていた。
でも、アパートに帰る勇気がでなくて、山の手線に乗りつづけている。
財布のなかは空だった。
おれにはまゆを連れて逃げつづける力はなかった。
笑ってしまうほど子供っぽい逃走劇だった。その間、したことといえば、少女と寝ていたことだけだ。
いまでも、股間は屹立している。
電車に乗りつづけているのも、どこかでふたりきりになってしまったら、まゆを抱いてしまいそうだったからだ。
現に、朝、田舎の駅を発車した、東京行きの列車のボックス席で、おれはまゆを抱いていた。初老の車掌がやってきたときには、ほとんど挿入しかけていた。
とっさに寝たふりをしたので、車掌は気づかなかったようだが、おれはさとった。
――おれは狂いはじめている。
のべつまくなしにまゆを抱こうとしている。唇を吸おうとしている。
そして、まゆも、それがあたりまえだと思いはじめているようだ。抗うことをしない。求めれば、どこででも膝をゆるめる。そして、愛撫には声をはなつ。
――まゆも狂いはじめている、のかもしれない。
いや、それはおれがまゆを染めあげてしまったからだ。
毒に、浸してしまったからだ。
山の手線の風景は、なぜだかとてもなつかしくて、古い記憶を刺激した。
むかし、膝立ちでシートにあがり、窓の外の風景を厭かずにながめた。
それが、まゆとほとんど同じ年頃のことだったように思う。
あの頃の心は柔らかくて、痛みにとても敏感で、そして、可能性に満ちていた。
子供というのはそうだ。無垢ではない。そして傷にまみれている。それでも、かさぶたの下にはつねに新鮮な皮膚がうまれ、そして次の階梯をあがるために息せききっている。
知ることで失っていくものの意味をまだ知らない、がゆえに多くの価値をたもっている。
おれはまゆを見た。
疲れていた。荒淫と不自然な生活が、まゆから子供らしさを奪っていた。重い陰りがまぶたの下に溜まっている。細い身体がさらに細く、頼りなげに見える。
衣服のほつれ、髪の汚れ、結局買いそびれた靴のかわりのスリッパは、泥にまみれて固まっている。
なんということだ。
おれは、この子に哀しみを近づけさせないと誓ったのではなかったのか。
すうすうと寝息をたてている無力な少女に、おれは、なにを与えてやったというのか。
おれは……
想いを反芻するとともに、涙があふれた。
向い側の老人が片目をあけた。白内障が始まっている瞳だった。
おれを見て、表情もかえず、また目をとじた。
眠ったままのまゆをおぶって、おれは電車を降りた。
まゆの眠りは深いようだ。
このまま目覚めなければいい、と思った。
踏切を渡りながら、ふと、電車にとびこむ自分の姿が脳裏にうかんだ。
それもいいのかもしれない。
まゆと肉塊となってまじりあう。
それもひとつの回答かもしれない。
愚かな答えだが、もともと問い自体が愚かなのだ。
――むろん、まゆを殺すことなど、できるはずがない。
おれひとりを殺すことについては考えることを避けた。思いのほかあっさりと結論が出そうな気がした。
一歩一歩、前に進むたびに心臓がちいさくなっていく。
自分の身体も小さくなる。
視野もせまくなる。
大きく息をはく。その息のぶん、存在を許されているという感じがする。
まゆが重い。こんな小柄な少女が重く感じる。背骨がきしむ、その感覚は、しかし甘美だった。いっそ、まゆの全身が剃刀でできていたならば、と思った。おれを切り刻んで、罪の何万分の一でも償わせてほしかった。
はじめて出逢ったとき――こんな日がくるとは想像もしなかった。
小学校にあがるかどうかという小さな女の子。日本語がまだわからない、お人形のようなおしゃまさん。
そして、再会したのは、まだほんの一週間前のことだ。
なんという日々だったろう。
たしかに言えることは、この数日間ほど、おれは生きたことはなかった。これまでの二十数年かの人生は、この一週間のための準備期間でしかなかったようにさえ思える。
まゆを愛したこと。そしてまゆに愛されたこと。
それだけが、おれが生きた証しだ。
――気がついたとき。
旅は終わっていた。
「もどったね、沢くん」
そこはおれのアパートの前で、目の前には天野貴之がいた。雪江もそばにいる。二人とも、身なりからして一般人ではないというオーラを放っている。
道端に停まっているのは黒塗りのリムジンだ。自家用ではないだろう。たぶん、航空会社がVIP用に準備している車両なのだ。
その近くに、やはり黒塗りのベンツが停まっている。傍らにいるのは神村弁護士だ。さすがに苦虫を噛みつぶしたような表情をうかべている。出しぬかれたくやしさか、それとも……
そんなことはどうでもよかった。おれは疲れていたのだ。
「ギリギリのところだったよ。われわれが空港に向かわなければならないタイムリミットが迫っていた。きみが戻らなければ、神村弁護士に処理を任せて行くしかなかったところだ。むろん、警察沙汰になっていたろうね」
「そうですか……」
なにも感じない心で、おれは答えた。
「まゆを渡してくれるね? この子はまだ幼い。愛だの恋だのという前に、子供らしい無邪気な生活を送る権利がある。おとなの欲望で、子供の心を歪めてはならん。ちがうかね?」
貴之の言葉は否定のしようがない。その通りなのだ。
「きみがしたことは普通なら許されないことだ。犯罪だ。だが、まゆを想ってのことだと信じる。だからこそ、いまはまゆの幸福だけを考えてほしい」
貴之の言葉に雪江がうなずく。
「そうよ、まゆはわたしたちが実の娘と同じに大切に育てるわ。いつか、おとなになったまゆのところに会いにいらっしゃいな。ね、だから……」
雪江が手をさしのべる。まゆを受け取ろうとしている。
おれはおぶっていたまゆを起こさないように気をつけながら――