MA−YU 学園編 第三話

堕ちゆくこころ

或いは まゆといけないおともだち

 

 

 熱に浮かされているような感じだった。アルコールだけではない。なにかが血管のなかを駆け巡っていた。

 午後十時過ぎ、繁華街はこの時間帯になっても人通りが絶えなかった。むしろ、これから始まってゆくのだろう。

 まゆは駅への道をたどっていた。

 加織と住田の行為が脳裏に焼き付いていた。

 まゆは先にボックスを出た。加織に追い出されたようなものだ。むろん、まゆに否やはない。

 加織としては、まゆの弱みを握ることができればそれでよかったのだろう。

 まゆは街をふらつきながら歩いていた。

 内股がぬるぬるする。

 動悸はまだ収まっていなかった。

 なんだったんだろう、あれは――

 さっきの快感を反すうする。

 墨田に入れられそうになった時に迎えた絶頂は、いままでのどれとも違っていた。似ているとすれば、鏑木の講義で実験台にされた時だが――それとも違う。あれは肉体的なものだった。刺激が蓄積されて器からこぼれた、それだけのことだ。

 だが、さっきのは――

 衝き上げてきた。すごい高まりだった。しかし、それは浮かび上がる多幸感とは逆ベクトルの、叩きつけられる感じ。壊れて、汚れて、堕ちてゆく、そんな感じだった。

 死の匂いのする愉悦の海で溺れるような――

(わたしが……それを、望んでる……?)

 わからない。

 良明への想いが薄れたとは思わない。だが、なにかが違ってしまった、そんな気がする。

 思えば、良明と結ばれたとき、まゆは幼すぎて、その意味を理解していなかった。その行為が、世間一般の基準に照らせば犯罪にあたることも。でも、後悔などしていない。世界中すべてがまゆと良明の敵に回ったとしても、かまわない。ただ良明と繋がっていられさえすれば。

 でも、良明にも、まゆにも、生活がある。日常がある。そのなかでは、二人の関係も変化してゆかざるを得なかったのかもしれない。

 まゆにとっては、二人だけで暮らした、ほかのだれとも拘わりを持たなかった日々がなつかしかった。ただ、良明に求められ、それに応えるだけ。ひたすらに交わる――それが愛されることなのだと、愛することなのだと知った日々が――

(おにいちゃんに話そう。話して、抱きついて、キスして――確かめてみよう)

 自分が変わったのか、良明が変わったのか、それでわかるはずだ。すくなくとも、自分の想いは届くはずだ。

 交差点の信号で立ち止まる。

 飲み屋やホテルなどが軒を連ねる猥雑な通りが平行して走っている。酔客たちがそちらに流れて行く。まゆは、その人込みを見るともなしに見ていた。

 人の目はよくできている。知っている人の形は見逃すことがない。

 まゆは一瞬目を疑った。

 良明が歩いていた。

 なんて偶然だろう。声をかけるべきか、それとも――

 迷ったのは一瞬だ。

 心臓がはねた。

 良明と見知らぬ女性が並んで歩いていた。

 おとなの、きれいな、おんなのひと――

 親しげだ。腕を組んでいる。周囲のカップルたちとなんの違和感もなく、溶け込んでいる。

 その時、信号が青にかわった。

 まゆは歩き出せなくて、後ろからきたサラリーマン風の男にぶつかられた。よろけた。男は舌打ちして、そのまま歩いてゆく。

 良明と女性の姿がホテルの植え込みに吸い込まれた。

 胸に穴があいた。なにかが失われた。

 ばちがあたった――そう思った。これが答えなんだ。

 裏切られたとは思わなかった。まゆ自身、もう裏切っている。だからだ。だからなのだ。

 足がふらついた。

 通りをふさいで馬鹿話に興じていた若者たちにぶつかった。

「あ、すいませ……」

「いって、あに?」

 目付のひねた、奇妙に痩せた少年たち。合成皮革のジャンパーに真鍮っぽい指輪、タバコをくわえ、サングラスをかけることで武装したつもりになっているのかもしれない。

「あんだよ、おめー」

 手首をつかまれた。

「おいおい、祥英だろ、その制服。お嬢サマだぞ」

「ひょ〜、お嬢サマの匂いかぎて〜」

 まゆの顔に鼻をよせてくる。

「みろや、こいつ、酔っ払ってっぜ」

「うっそ、クスリじゃねーの?」

「ヤリマンけって〜か?」

 三人で取り囲む。

「やる? やっちゃう?」

「カノジョもやりたそーだし」

「決まり決まり」

 通行人たちがよけていく。まゆは目で助けを求めたが、家路を急ぐサラリーマンたちの視線は巧みにまゆを避けていた。

 まゆは腰に力が入らない。声も出ない。怖い。

 三人を相手にさせられるのだろうか。

 殴られたり――殺されたり――

 ――罰だ。

 そこにまゆの思考は落ち込んでしまう。これは罰だ。

 少年たちは路地にまゆを連れ込んでゆく。

 まゆは引きずられるままだった。罰されるという予感に打ちのめされていた。

 たぶん、自分から進んで少年たちについて行ったように見えたろう。

 遠巻きに見ていた一部の通行人たちも、肩をすくめて歩きだす。

 やれやれ、最近の若い者ときたら――と。

「まじでヤリマンかよ」

 壁にまゆを押し付けながら少年の一人が笑う。

「目ぇ、うるんでるぜ」

「エロリータ?」

 別の一人がまゆの胸を制服の上からつかむ。

「こいつ、胸ね〜!」

 スカートがめくられる。

「げ、お子ちゃまパンツ。マニアック」

 へろへろへろと笑い続ける。

「カノジョ、やる気マンマンって、感じ?」

「おれら、逆ナンされた?」

 下着に乱暴に触れてくる。

「おほ……ぐっしょり」

 まゆはあふれてくる嗚咽を飲み込んだ。

 ――まゆは悪い子だから

 涙も出なくて、世界がモノクロに見えた。色とりどりのネオンもここまでは届かない。

 ――罰をうけなくちゃいけないんだ。

 理不尽さにはなれている。一瞬にして両親を失ったときから。

 ――今のままじゃ、いけないんだ。

 たぶん、良明との生活から得たものは、不安だ。自分がこんなに満たされていていいはずがない――という不安。居心地が良すぎて、幸せすぎて、怖くなる。

 いつからだろう、こんなに不安定な気持ちになったのは。

 ――生理がくるようになってからだ。

 良明の態度も微妙に変化した。優しさは相変わらずだったが、薄いヴェールがかかったようになった。欲望を直接ぶつけてこなくなった。

 自分に気をつかってくれている、尊重してくれている、それはわかっていた。だが、良明が優しければ優しいほど、まゆを大切に扱えば扱うほど、まゆの衝動は行き場を失っていった。

 ――おにいちゃんが悪いんじゃない。まゆが、ぜんぶ、悪い。

 淫乱で嘘つきな自分が。利己的でわがままな自分が。

 いやになる。

 いやだから、壊したい。

 その方が楽だから。

「脱がしちゃお」

「おい早くしろよ」

「せかすなよ」

 下着がおろされていく。こんなところで――

 よってたかって、

 めちゃくちゃに、

 犯されて、

 いいきみ……

 ――まゆのなかでもうひとりのまゆが嗤う。

 そのとおりだ。

 まゆは無力感に襲われる。力がぬける。

 少年たちの手が乱暴に動き、まゆの股間を――

「なにをしてるのかな」

 強いビームを当てられた。まぶしい。

 とてつもない光量のライトだ。

「強姦か。刑法第百七十七条、 暴行又は脅迫を用いて十三歳以上の女子を姦淫した者は、強姦の罪とし、二年以上の有期懲役に処する。十三歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする――複数で行為をおこなった場合、情状酌量の余地はさらにありませんね」

「け、警察か」

「やべえ」

 少年たちの腰が引ける。もう一人は早々と逃げ出している。

「そ、そいつから誘ってきたんだ――」

 まゆの顔に指を突き付ける。断罪されたような気がした。そうかもしれない。この人たちは悪くない。悪いのは――

「善悪など関係ありません。人間はやりたいことをすればいい。ただし、そのリスクは負わねばならない。それだけです」

 棒がしなって音をたてた。少年の頬げたがひしゃげる。

 光に目がくらんで、暴行者の姿がはっきりしない。

 腰を抜かしたもう一人にも棒が襲いかかっていた。鼻がつぶれて、赤黒い血が吹き上げた。

「さあ、行きましょう」

 まゆは手を引かれた。

 よろけた。

 大きくて、しっとりとした手だ。

「本物の警官がきたらすこし困ります」

 小さく笑った。その声は。

「――鏑木先生?」

 黒いスーツ姿の――白衣ではない――鏑木だった。

 

 

 鏑木の研究室のソファに腰掛けながら、まゆはぼうっとしていた。

「いつもなら、必ずだれか学生がいるんですがね」

 コーヒーの支度をしながら、鏑木がまゆを振り返った。

「今日はゼミの飲み会でしたから」

 だから、あの時間に鏑木が盛り場にいたのか。そして、ほっそりとした身体によく似合う黒いスーツ。

 それにしても。

 家まで送ろう、と言った鏑木に対して、まゆは首を横に振り続けた。家にはだれもいない。抜け殻のようなあの部屋には戻りたくなかった。

 鏑木はすこし考えて、タクシーを拾い、学園に戻った。鏑木研究室のある棟には、警備員のいる門を通らずに、通りからそのまま乗り入れることができる。

「さすがに、この時間帯に中等部の女生徒を連れ込んだところを見られたら、誤解されますからね」

 マグカップをふたつ手に、鏑木がソファの対面に座る。カップのひとつをまゆの目におく。

「どうぞ。勝手ながら砂糖とミルクを入れさせてもらいましたよ」

 まゆはカップを手に取り、その香りを小さく吸い込んだ。

 飲むのがためらわれた。

 鏑木が苦笑する。

「今回は薬は入れてませんよ」

「そ、そうじゃなくて」

 まゆはあわてた。そんなこともあった、とは、言われてから気が付いた。

「なんだか、不思議な気がして」

「不思議?」

 鏑木が首を傾げるが、まゆは答えずにコーヒーをすすった。

 熱さと甘味が口のなかにひろがっていく。こんな時は、甘いものがおいしいんだ、と気づく。

 やっぱり不思議だ。二度とこないと誓ったはずの場所に、あっさりと戻ってきてしまった。

 しかも、この書物だらけの雑然とした部屋に、奇妙な居心地の良ささえ感じてしまっている。

「落ち着いたら、おうちに電話したほうがいいですよ」

「電話しても……」

 無駄だ。良明は今ころはきっと――

 まゆは目を閉じた。自分でも驚いたことに涙があふれてきた。胸が痛い。いや、もっと空虚な――欠落感。

 鏑木はそんなまゆをそっと見つめていた。なにも言わない。

 ふと立ち上がり、ティッシュの箱を取ると、まゆの前に置いた。それだけ。

 まゆは身体を折って泣いた。両親が死んだ時は声をあげて泣くことさえできなかった。でも、いまは――

 子供のような声をあげて泣いている。それがまゆ自身、意外だった。

 そう思うと、おかしい気分にさえなる。

 まゆは目の前のティッシュに気づき、数枚を手に取り、かっこわるいと思いつつ、鼻をかんだ。

「落ち着きましたか?」

 鏑木は微笑みながら訊いた。

「はい……すみません」

「そうですか」

 鏑木はカップを傾けた。その手首にまゆは目をとめた。

「先生、血が……」

「ああ、これですか。路地の壁でこすってしまいましてね。なれないことはするもんじゃありません」

 クリプトンライトと――特殊警棒とでもいうのか、伸縮自在の金属棒をポケットから取り出すとテーブルの上に置いた。

「護身用に手に入れたものですが、初めて役にたちましたよ。なにしろケンカはからっきしなものでね」

「手当しないと」

 まゆは立ち上がる。

「かすり傷ですよ」

「でも――わたしのために」

「ふむ。まあ、いちおう医学を修める者としては、小さな傷でもなおざりにはできませんね。それでは、お願いしましょうか」

 鏑木は消毒薬とガーゼ、包帯の場所をまゆに教えた。

 まゆは鏑木の言う通りに傷を消毒し、ガーゼをあてて包帯をまいた。

「上手ですよ、七瀬さん。看護士になれますよ」

 鏑木はほめた。なぜだか、まゆはうれしい気持ちになる。

「この調子で、これからもわたしの授業を手伝ってくれるとうれしいんですが」

「そ、それはだめです」

 まゆはあわてて言った。

「冗談ですよ」

 鏑木は笑った。理知的で、それでいて邪気のない笑いだった。つられてまゆも笑っていた。

 ほんとうに不思議だ。怖いだけだった鏑木が、なぜだか親しい相手に思える。この感覚は――そうだ――神村弁護士のときに似ている。

 神村とは、あの一件以来一度も連絡していない。事故にあって入院したという話も聞いたが、あのことを思い出すのが怖くて、見舞いにも行かなかった。もう半年以上経つ。

 良明とは別に、ただ一人だけ、最後まで許した相手。

 今から思えば、神村に落ち度はなかったと思う。あそこまで進めば、最後までできると思うのが当然だろう。墨田がそうだったように。

「練習」というお題目で、一方的に快楽をむさぼっていたのはまゆの方だった。無意識のうちに、神村を利用していたのだ。

 いまはまゆもそれが理解できる。だから、神村に謝りたかった。

 今なら、今、鏑木と接している気持ちで神村と会えれば、きっと――

 

おしまい