MA−YU 学園編 第三話
堕ちゆくこころ
或いは まゆといけないおともだち

 

 沢良明はわけもわからず街を歩いていた。まゆを見失っていた。

 いったいなにが起こったのかわからなかった。

 まゆのことはなんでもわかっているつもりだった。尊重もしてきたつもりだ。

(理解できない)

 あの、まゆの悲しみと、不信と、なにかしらを嫌悪するような視線を浴びたとき、良明のなかで築き上げてきたものが揺らいだ。

(なにかがちがう)

 自分が望ましいと思ってきた状況が――

(もともと無理があったのではないのか)

 まだやっと中学生になったばかりの少女とのままごとのような生活――

(おれはまゆを幸せにしているつもりだった。そう努めてきた)

 ――だが、まゆは果たして幸せだったのか。

(ふたりの生活に満足していたのは、ただおれひとりだけだったのではないのか――?)

 いま、まゆがここにいて、その目をみて、体温を感じて、細い身体を抱き締めれば、この不安もなくなるのかもしれない。

 だが、まゆはいない。あるのは、最前の理解不能な拒絶の記憶だけだ。

「お、沢じゃないか」

 声をかけられた。

「社長」

 淡いグレーのスーツを着た樫村里佳子が雑踏の中、超然として立っていた。

「どうした? 彼女に振られでもしたのか」

 からかい口調で言い、それから良明の顔色に気づいて表情をあらためた。

「なんだ、図星か……? 今日はめずらしく定時にあがったから、気合が入ってるなと思ったんだが」

「社長こそ……どうしてこんなところに」

 繁華街はそろそろ本格的な夜のフェイズに入りつつある。

「接待だよ、接待。今日は中興販売のお偉いさんのご指名でね」

 超極小出版社のまほろぼ書店の営業は社長の里佳子と良明の二人で回しているが、大手の取引先は社長が一手に引き受けている。良明がまだ経験不足のためだが、こうした夜のつきあいも、おおむね里佳子の担当になる。

「え? じゃあ、健也は」

 里佳子が夜、家をあけるときは、彼女の一人息子の健也の夕食の世話は良明がすることになっている。ちゃんと残業手当のつく、彼の業務のひとつだ。最近は健也もなじんで、甘えてくることもしばしばだ。

「ああ、今日は中村ちゃんに頼んだから」

 中村というのは女性のデザイナーだ。だれにでもずけずけとものを言う性格で、女性らしさとは無縁。とても子供の世話をやくタイプではない。中村にとっても、健也にとっても、気詰まりな夜になることだろう。

「そんな。おれが支度したのに」

「だって、きみゃーデートだったんだろ」

「それは……」

 良明は黙った。だが、まゆとは家に帰れば会えるのだ。

「たいした約束じゃなかったんです。言ってくれていれば合わせましたよ」

 怒ったような口調になってしまう。

 おや、というように里佳子は眉をあげた。

「ふうん、なら、今後はそうするよ。あの子もあんたになついてるようだしね」

「そ、そうですよ。男同士、話が合うんです」

「りょーかい」

 里佳子は片手をあげた。

「じゃ、そろそろ約束の時間だから。お勤めに行ってくるよ。気が重いけどね」

 中興販売といえば、先方の担当は真壁部長。四十代半ばの脂ぎった高圧的な男で、常に無理難題を持ちかけてくる。それでも弱小出版社としては逆らうわけにはいかない。それを知り尽くした上で、プレッシャーをかけてくる。そういうタイプだ。

 しかも、この男はバツイチやもめで、どうやら里佳子に気があるらしい。セクハラまがいのアプローチをたびたび里佳子に仕掛けていた。

「社長、大丈夫ですか」

 良明は思わず声をかけていた。

 眼鏡のむこうで里佳子がまばたきした。

「大丈夫って、なにが」

「おれ、ついて行きましょうか」

「なにいってるかな、きみは。デートの約束があるんでしょう」

「すっぽかされたんで、ヒマですよ」

 その言葉じたいは事実だ。まゆを見失った。たぶん、まゆは家に帰ったろうが、正直、すぐ家に戻って顔を合わせるのは億劫だった。

 そんな必要はない、と笑い飛ばされるかと思ったが、里佳子はほっとしたような表情になった。

「そうか……じつは、ちょっと助かる。真壁部長とサシというのは……かなり気詰まりだったんだ」

「そうですよ。おれも営業なんですから、いくらでも使ってください」

 里佳子は唇の端をまげて笑った。ちょっと皮肉な、だが、どことなく脆さを感じさせる笑みだった。

 

 その小料理屋は真壁の指定とのことだった。むろん、払いはまほろば出版もちだ。小ぎれいだが、どことなく薄っぺらな印象の造作の店だった。

 約束の時間にはまだ間があったが、すでに真壁は来ているという。里佳子と良明は仲居の案内で奥の座敷に案内された。

「おお、りっちゃん――おや、一人じゃないのかね」

 座敷に先に陣取っていた真壁は立ち上がって里佳子を出迎えたあと、あからさまにいやな顔をした。

「真壁部長、遅れて申し訳ございません。今日はうちの若いのに、部長のお話を聞かせて勉強させてやろうと思いまして」

「営業の沢と申します」

 ひざを折って、良明は名刺を差し出した。不興げにそれを受け取った真壁はろくに名刺を見もしないで、里佳子に言う。

「まさか、担当が変わる、というんじゃないでしょうな。それだとウチとしてもそうそう便宜は図れなくなるが」

「いえいえ、そんな。沢は業界に入ったばかりで、とても中興販売さんの担当は務まりません。今日は部長の成功の秘訣を教えていただこうと思って連れてきたまでです」

「真壁部長のお話は高階からよく聞かされております。数々のヒット企画をものにされたとか。今日はぜひご教授をたまわりたく」

 良明は畳に手をついた。そうまで言われるとさすがに悪い気はしないらしく、真壁の表情もゆるんだ。

 まずビールで乾杯となり、良明はせっせと真壁のグラスにビールを注いだ。

「まあ、出版というものはだね、時代の先を読む能力だね、それがものを言う。しょせん読者はバカなんだ。バカがほしがるのはゴシップとセックスだ。それをうまくちらつかせてやればいいのさ」

 真壁は自慢話を始めた。もう十数年も昔に話題になったタレントの暴露本、それを仕掛けたのは自分だとおおいに吹いた。良明もその本のタイトルを覚えていた。でたらめで、恥知らずな、興味本位なだけのゴミのような本だった。

 内心へきえきしたが、感心したふりをせざるをえない。しかも真壁にはそれくらいしか自慢の種がないらしく、繰りかえし繰りかえ同じ話をした。

 あとは業界人の悪口だ。あの雑誌の編集長は無能だの、どこそこの部長は六本木のキャバクラの入れあげて会社の金を使い込んでるだの、作家のだれそれはじつは編集部とのコネで賞がとれたのだ、など、罵詈雑言の数々。話者の知性と品格の欠如をあからさまに示していた。

 むろん、里佳子へのセクハラも執拗だった。酔いにかこつけて、むりに里佳子の横に座り、ひざに手を置いた。酒臭い息を吹きかけながら、きわどい話をつづける。

「りっちゃんも独り寝はさびしいだろう? おれが添い寝してやろうか? さびしい者同士、仲良くしようや」

「またまた、部長さんったら、こんなおばさんをつかまえて」

 きゃらきゃら笑って見せる里佳子。

「なにをいっとる。まだ三十路にもならんくせに。まだまだ若いよ、りっちゃんは」

 不本意ながら、その真壁の言葉には同意せざるをえない良明である。

 ほんのり酔い加減の里佳子の肌はきめが細かく、まるで少女のようになめらかだ。わずかに潤んだ瞳もつやっぽい。

 それにしても、真壁の酔態はあさましかった。

 良明がむりやり「手柄話」に引き戻さないと、すぐに男と女の話、とくに、女の生態の話になる。いかに女がセックス好きか、おとなしい顔をしているくせに淫乱であるか、金に転び美男子に転びすぐに貞操を投げ出すか、挙句のはてにクスリを使えば女なんてイチコロだとわめき出す始末。

「いつもこうなんですか」

 トイレに立った折り、里佳子を廊下でつかまえて、良明はあきれ声をだした。

「酔うとね。奥さんに逃げられたのがこたえてるんじゃないかな。酔ってないときは、それなりにやり手なんだけどね。うちの本のキャンペーンなんかもやってくれるし」

 疲れ果てたように里佳子は言った。ほつれた髪が額にかかって、色っぽい。

「ともかく、あともうちょっとで酔い潰せますから、そしたら、タクシーにのっけちゃいましょう」

「うむ、それだ」

 里佳子はうなずき、座敷に戻って行く。良明は入れ替わりにトイレにむかった。

 放尿しながら時計を見た。午後10時――まゆは家でどうしてるだろうか。良明の連絡を待ってやきもきしているかもしれない。

 電話を入れたほうがいい――たとえ言葉をかわすのが気まずくても、それが保護者の義務だ。

 手を洗い座敷に戻りつつ携帯電話をとりだす。家への番号をプッシュしようとしたとき――

「や――やめてください」

 里佳子の声が襖の向こうから聞こえて来た。

 なにかしら揉みあうような物音。

「な、な、な、りっちゃん、いいだろ? 今度の新作のキャンペーン、全国の店舗でやるから――なあ」

「部長、いけません――や――」

 里佳子の声――息遣い――女の声――

「なあ、あんたも飢えてるんだろ? 若いのは帰してさ、ホ、ホテルへ」

 良明の血が沸騰する。健也のことが胸をよぎる。

 襖をあけた。

 畳の上で、真壁と、真壁に押し倒されている里佳子の長い脚が見えた。内股を真壁がなでている。

 里佳子の眼鏡がはずれて、若い――小娘のように懊悩した素顔がさらされていた。

 その耳のあたりに真壁が吸い付いているらしい。

 良明はテーブルからビールグラスを取り上げ、中身を真壁の背広の首筋に注ぎ込んだ。

「うわ、わっ!」

 真壁がとびあがる。

 あわてて振り返り、沢の凝視に凍りついた。

「沢――だめ、やめて!」

 里佳子が声をあげる。

 良明は拳を握り締めた。

 

「まったく、思ったよりも粗忽者だね、きみは」

「すみません」

 里佳子の行きつけだというバーのボックス席で、良明は里佳子に頭を下げていた。

 あの後はたいへんな騒ぎになった。蒼白になって激怒する真壁を里佳子がなだめすかし、結局はタクシーに押し込むことに成功した。クリーニングおよびタクシー代と称して、里佳子が数万円を渡していたようだ。

「これで中興の取り扱いがなくなったら、うち、アウトかもね」

「――申し訳ありません」

「あんまり申し訳なさそうじゃないね。なにか言いたいことあるんじゃない?」

 そういう里佳子の口調もけして怒っているわけではない。

「どうして、抵抗しなかったんですか」

 あの時、里佳子は真壁の行為に対して拒絶をしていなかった。女性とはいえ里佳子は小柄な方ではないし、むしろ真壁は痩せて貧相な男だ。はねのけることも不可能だったとは思えない。それに、あの表情――里佳子の女の顔が垣間みえた気がした。

「殴りつけて問題にしろっての? あのね、あたしには守るべきものがあるの」

 里佳子は眉をひそめた。

 会社か――

「健也に悪いとは思わないんですか」

「なんで?」

「な、なんで、って。母親が外でそんなことしたら」

「そんなことしなきゃ、子供だって生まれないよ。沢、あんた童貞?」

「な……わけないじゃないですか!」

「だよね。でも、なんか、童貞くさいというか、女に幻想抱きすぎっていうか――」

 里佳子の顔が近づく。

「女だって人間なんだもん、求められればうれしいし、それを利用して得したいって思うこともあるよ」

「でも、相手はあんなおっさんですよ!」

「――好きってわけじゃないけど、真鍋さんは普通の人だよ。ごく当たり前の。あんたやあたしと変わらない――凡人さ。そんなに見下したもんじゃない」

 真鍋の顔を思い浮かべた。下品で、自意識過剰で、相手の年齢が自分より下というだけで他人を見下し、自制心がない、欲望まみれの男――だが、自分はどうなのか。清廉潔白な人格者だとでもいうのか。

 まゆと――まだやっと中学に上がったばかりの少女と、数年にわたり性交渉をつづけているおれは――

「ちがうよ」

 額をつっつかれた。

「反省しろってのことじゃないの。誰だって良くないところはあるさ。それをひっくるめて、普通、ってこと。そうしないと、理想ばっか追い求めちゃって、目の前の幸せを見逃すよ?」

 里佳子が笑っている。良明はつられて笑おうとして、笑えなかった。

「――あたしみたいに、さ」

 笑ってるんじゃない。里佳子は泣いているのだ。笑顔をつくりながら、里佳子は――

「ありがとう。ほんとはうれしかった。助けてくれたんだもんね」

 里佳子が落とした視線の先、自分自身の薬指――ファッションリングに姿を変えているが、たしかに指輪がはまったままだ。

「さっきは叱ってくれて、ありがと。ちょっとダンナのこと思い出しちゃった。似てないのにね」

 良明は里佳子の手を取った。そうしないと、里佳子が泣き出してしまいそうな気がした。握ってみると、驚くほど華奢な指だ。

 この細い指で、腕で、里佳子はまほろば出版を支え、健也を育て、真鍋たち業界の古狸たちと渡り合ってきたのだ。考えてみれば、良明よりほんの三歳、上なだけだ。

「社長……」

「うわ、興ざめ。こんなときくらいは名前で呼んでよ。デリカシーないな、きみ」

「よ、呼べないですよ、そんな」

「そ?」

 唇が近づく。

 備える時間もなかった。目を閉じる余裕も。

 当然、子供のキスじゃなかった。

続く。