MA−YU 学園編 「第一話 ふたつの始まり」


「初日から遅刻とは――いい度胸というかなんというか」

「はあ……」

 良明は首をたれる。

 けっきょく、ぼうっとしているまゆの後始末やなにやらで時間を食ったのと、やむなく自転車にのっけて駅まで送ったりしているうちに、出社時間に間に合わなくなってしまったのだ。

「うちの業界はあんまり朝はシビアじゃないけど、最初からこれじゃ、ほかの社員にしめしがつかないでしょ」

 腕組みをしているのは、社長の樫村里佳子だ。良明よりみっつ年嵩なだけで、まだ若いのだが、《のりす出版》の全権を掌握する経営者である――といっても、新入社員の良明を入れてもようやく五人という小所帯だが。

「申し訳ありません」

 良明はふたたび頭をさげた。

 里佳子はセルフレームの眼鏡を指でついと押さえる。ショートカットといえば聞こえはいいが、ようするにいちばん手間のかからないっぽい髪型にしてみましたよ、という感じだ。もっとも、それが似合っていないわけでもない。

「ま、なにしてて遅れたかはあえて聞かないけど――」

 意味ありげに良明の喉元を見ている里佳子に気づき、良明は反射的にその箇所を手でおさえた。その部分にキスをしたがるくせがまゆにはある。キス・マークが残る可能性は否定できない。

「妻帯者とは聞いてなかったけどな……べつにどーでもいいか――みんなに紹介するよ、きな」

 オフィスは賃貸ビルの地階のワンフロアぶちぬきだ。といっても、小さなビルなので、一〇坪もない。しかも、そのうちの四割までは在庫の本で埋まっている。社員たちの机はどちらかというと肩身がせまい感じで、隅のほうに固められている。

「経理、人事、契約その他総務一切の安藤さんだ」

 五十代半ばと見えるほっそりとした男性だ。すでに髪が半分白い。かけている眼鏡は遠近両用だ。どうも、老眼らしい。

 良明はお辞儀をする。

「沢良明です。よろしくお願いします」

「どうも……」

 安藤の声はなんとなく消え入りそうな感じがして頼りない。

「こっちの彼女はエディトリアル・デザイナーの新宮ちゃん。外注デザイナーも使うけど、うちはけっこう特殊な作りの本が多いからね」

 マッキントッシュの前でディスプレイを凝視しているメタルフレームの眼鏡の女性を里佳子は紹介する。まだ若いようだが、化粧っけがまるでないのがかえって年齢をわかりづらくさせている。髪の毛はひっつめで後ろに束ねているだけだ。あまり装いに気を使わないタイプらしい。

「沢良明です、よろしくお願いしま……」

「聞こえましたよ、せまいんだから。いちいち名乗んなくても」

 画面から目を外すことなく、新宮は言った。

「ま、がんばってください」

「あ、ありがとうごいます」

 そっけないが、悪気があるようでもない。良明はちょっとホッとする。そして、自分以外は全員眼鏡をかけているんだな、とも思う。

「んで、あとひとり――営業の志方ってのがいるんだけど、こいつがもうすぐ寿退社でね。今日は午後から出てくるから、仕事はその子から引き継いで。いちおう、営業経験者なんでしょ」

「ええ、まあ」

「もっとも、うちは営業っつったって、なんでもやってもらうけどね」

 里佳子はペットボトルの緑茶の封をねじってあけると、ぐびっとやる。およそ女性らしくない。

「企画から、ライター・画家との交渉や制作進行、デザインの発注、印刷会社とのやりとり、むろん取次との交渉もあるし、書店への販促もね。でないと、こんな感じに」

 うずたかく積みあげられているダンボール箱――中味は本だ――を指し示す。

「日々、スペースが食いつぶされていくことになる。もちろん、給料だって基本給のみ。自慢じゃないけどとっても安いよ」

「はあ……」

 そんなことを堂々と言われても困ってしまうのだが、とりあえず良明は笑い顔をうかべる。多分に引きつっているとは自覚している。

「あと、新人くんには特別な仕事がある」

 里佳子は、にまっと笑った。笑顔の里佳子は、口調から受ける印象よりずっと美人だ。若々しくもある。

「ちょっとわたしのプライベートに関わることなので恐縮なのだが……」

 意味ありげにささやく。思わず良明はあらぬ想像をしてしまう。

 まさか――夜の相手をしろとか――そんなことじゃあるまいな……

「これの相手をしてもらいたい」

「相手って……そんなっ!」

 想像の一部と言葉が一致して、良明は声のトーンをあげる。

「きみは子供の相手は苦手か?」

 すぐそばに里佳子のマジメくさった顔があった。

 子供の、相手――と言われて、すぐにまゆの今朝の嬌態が脳裏にうかぶ。

「いやっ、そのっ、おれは、べつに子供でも――」

「ふむ?」

 里佳子が首をかしげる。

「子供でも、というのがちょっと引っかかるが、まあいい。これの相手だ、わかるな?」

 良明は里佳子の側にくっついている男の子にようやく気づいた。

 小学校の低学年だろう。大きな目で良明を見つめているが、どことなく敵意を蔵している感じだ。

「息子の健也だ。この上のフロアがうちの自宅でね。学校から帰ったら、ここに入り浸っていることが多いんだ。なので、仕事の手があいたときに、まあ、見てやってほしい。わたしは外出が多いし、戻れるのは夜中になることが多いので、夕食の支度とかもな」

 おいおいマジかよ、と良明は萎えかける。

 それでも、せっかく正社員として雇ってくれそうなのだ。少々の無理もしなければなるまい。

 良明は友好的な表情を作りながら、男の子に話しかけた。

「や、やあ――よろしくね」

 健也というらしい男の子は、さっと机の影に隠れた。警戒している様子がありありだ。

「この子のあしらいについても志方から聞いておくんだな。母親のわたしでもわりと手を焼くからな、こやつには」

 カカカカと里佳子は笑った。わりと豪快な感じだ。

 良明はそっとため息をついた。どうやらとっても歯ごたえのある職場らしい。

「で、ありますからして、わが祥英の生徒となったみなさんにお伝えしたいことは次のようなことです。すなわち――」

 壇上で、PTA会長だかなんだかの、和服姿のおばさんがしゃべっている。

 かなり長い。もう十五分くらい続いている。新入生はパイプ椅子から起立させられ、気をつけの姿勢を命じられたままだ。

 まゆは慣れぬ姿勢に耐えかねて、わずかに身じろぎする。

 それだけで叱責するような視線が浴びせかけられる。

 新入生たちは見事に姿勢を保って整列している。大部分は初等部からの持ち上がり組で、この手の長話には慣れているのかもしれない。残りは中等部からの編入組だが、こちらもさすが難関をくぐりぬけてきた「お受験」の勝利者たちだ。持ち上がり組と、すでに見分けがつかないくらい、微動だにしない。

 彼らのなかで、まゆはあきらかに浮いている自分を感じていた。

 制服は同じだ。でも、どこかがちがう。たとえば靴――。磨きぬかれた本革の靴と合成皮革の安物とではツヤに差がある。校則に反しないアクセサリであるリボンや腕時計といったもの――それらにも高級品の匂いがする。さらには、後ろに陣取っている父兄たち――高級スーツに身を固めた保護者たちが送る視線によって、生徒たちの表情自体、引き締まり、輝いている。

 それに比べてまゆは――まだ朝のセックスの余韻から身体が抜け出ていない感じだ。

(こんな子、ほかにはきっといないだろうな……)

 おばさんの論旨不明確な話を聞き流しながら、ぼうっと考えている。

 良明の指の感触、身体のあたたかさを思い描く。自分の身体の上をはいまわる舌の動きを、そして、最も感じる部分にあたえられた強い刺激を――

(おにいちゃんと、いっしょにいるんだ……)

 式典には出席していないが、たしかに良明はすぐそばにいる。まゆは、良明の体臭を感じた。それが、自分の制服の中からたちのぼる移り香だと気づいて、鼓動が速くなる。

 中学校の入学式に、男の肌の匂いをまといつかせている新入生――まゆはそれを自覚して、羞恥とともに股間の変化を感じる。

(ぬれて……きちゃった)

 下着の奥で、身体が疼きはじめている。あわただしい交わりのなかで、まゆはたしかに頂を迎えたものの、不十分だった。もっと、ゆっくり、時間をかけてしたかった。

 端的に言って、物足りなかったのだ――良明には言えないが。

 もっといっぱい、乱暴に、壊れるくらいにしてほしかった。

 まゆは膝をすりあわせた。下着の中が熱くなっているのがわかる。しめり気が布を通じて、スカートのなかにこもりはじめているような気がする。

(さわり……たい……)

 だが、人前でそんなことができるはずがない。ましてや、入学式のまっさいちゅうだ。

 まゆは呼吸が苦しくなってきた。腿の間にぬるっとしたものを感じる。

(あれ……なんか……へん)

 視界が歪んだ。くたっ、と膝が折れて、前のパイプ椅子の背もたれに手をついた。

 エッチな気分――というより純粋に気分が悪い――と思った時には姿勢が維持できなくなった。

「だいじょうぶ?」

 女性の声が耳元に聞こえた。腋の下から支えられている。ほのかなフレグランス。大人の女性だ。

「きっと貧血ね。保健室に行きましょう」

「だいじょうぶ……です」

 まわりの生徒たちが視線だけ動かしてまゆを見ている。蔑むような目つきだ。なんだ、だらしない、これくらいで――そう言っているような気がする。

「べつに恥ずかしいことじゃないのよ。こういう式典では、ふつう、ひとりかふたりは倒れるものなんだから」

 まゆは女性の声が自分の身体に響いてくるのを心地よく感じた。たしか、受験のときに見かけた先生だ――名前は――

「さあ、七瀬さん」

 逆に名前を呼ばれてしまった。まゆはその女教師に身を委ねる。肩を抱かれながら、新入生の隊列から離脱する。

 ええと……たしか……今泉先生だ……担任の……

 まゆは、女教師に肩を借りながら、よろよろと移動する。

「名門の誇りを持って、けっして他人に後ろ指をさされるようなことがないよう、慎みを持って行動してください」

 おばさんの演説はまだ続いている――

***

 カーテンと衝立で仕切られた保健室のベッドにまゆは横たわっていた。シーツの感触が冷たくて心地よかった。

 今泉教諭は、式典の後、新入生を教室に引率しなければならないからと言って、すでに去っていた。

『あなたは気分がよくなるまでここにいなさいね。あなたの担任はわたしなんだし――連絡事項はあとで教えてあげる。プリントも持ってきてあげるから』

 優しい先生でよかった、と思った。

 まゆ以外、式典から脱落した軟弱者はいなかったらしく、保健室は静かだった。校医の先生もいない。

 それにしても――モヤモヤがまだ身体を去らない。

 どうしてこんな気分になってしまうのか、まゆ自身にもわからない。

 受験勉強をしていた時期、セックスを控えていた反動だろうか?

「合格のごほうび」に良明からたっぷり「して」もらってからというもの、タガが外れてしまったのか自分でも持てあますほどの欲求が押しよせてくる。

(まゆってエッチな子なのかな……)

 真剣に悩んでしまう。今朝のように強引に求めることで良明に嫌われてしまうのではないか、そんな心配さえ胸に兆してしまう。

(でも……おにいちゃんとしたいんだもん)

 ずっと抱きあっていたい。良明の匂いに包まれていたい。勉強だとか、学校だとか、将来のことだとか、すべてすっとばして良明と一緒にいられたらどんなにいいだろうかと思う。

 だが、それを言うと良明は真剣に怒る。まゆ自身、学校そのものが嫌いなわけではないし、勉強やクラブ活動にも興味はある。「良明との生活」の優先順位が「学校生活」より上なだけだ。しかし、それは良明には理解してもらえないようだ。

(おにいちゃんの……ばか)

 まゆは手指にわずかに残る良明の体臭を――それはたぶん他人にはわからない程度のものだろうが――を嗅ぎながら、その指をぺろりと舐めた。その瞬間、指は良明のそれになる。薄いかけふとんの下に指をもぐらせ、太股のつけねに移動させる。

 下着はまだ湿っている。湿気をたっぷり含んだ部分を中指の先でこする。

 ぴりぴりぴりと微弱な電流が身体を走りぬける。

(だめだよ、こんなところで……)

 保健室の中はひっそりとしている。たくさんの声が跳ねるようにあがっているのが遠くのほうから伝わってくる。もしかしたら式典が終わったのかもしれない。

「く……ふ……」

 まゆは小さく声をもらした。かけふとんがまゆの身体の動きに応じてかすかに上下している。

 良明の指をイメージして、まゆは下着ごしの愛撫を強くする。人差し指と中指を揃えて、割れ目の上をなぞり、次いで土手の部分をもむようにする。じわんじわんと血流が増していき、興奮が高まっていく。

「ん……んぅ……」

 まゆはまぶたを閉ざし、唇を舐める。リノリュームの床を通じてパイプベッドに這い上ってくる硬質なノイズ――生徒の声の反響、チャイムの音など――が、ここは学校なのだという現実感をもたらす。

 罪悪感を抱きながらも、まゆの指はより強い快感を求めて、亀裂の上端に移動する。悦楽を汲み上げるポンプの始動スイッチを布地の上から刺激する。触りはじめは、直接タッチするより上から押しつけるようにしたほうが気持ちいい。カバーの奥にプリッとした感触があって、それが指の圧力でわずかに動いた時、甘い痺れが腰から後頭部、耳の後ろのあたりまで伝わってくる。

 くにゅ、くにゅ、くにゅ……

「はあ……はあ……はぅっ」

 慣れてくると、より強い刺激がほしくなる。良明だったらどうするだろうかとイメージする。きっと、下着を脱がして、まゆの脚を広げさせ、クンニをしてくれるだろう。今朝、そうしてくれたように。

「おにいちゃん……さわって……なめてぇ……」

 まゆはベッドの上で開脚し、腰を浮かせた。自分の指をショーツの下にくぐらせて、硬い芽の部分に直接触れる。

 びりびりびりっ!

 と、鮮烈な感覚がその一点から爪先まで伝わって、まゆはブリッジするようにベッドの上でえびぞった。

 きぃ、とパイプベッドが鳴る。衣ずれの音も大きくなった。それでも、指を止めることはできない。

 かけふとんがずれて、床に落ちる。まゆはスカートをたくしあげ、ショーツをずらした。そのすきまに両手を突っ込んで、本格的な自慰に突入する。

 右手の中指をそろえ、クリトリスの鞘をはさむようにして上下に動かす。

 良明とつながっているシチュエーションを想像する。

「ああっ……おにいちゃん……きてぇ……」

 くちゅくちゅと湿った音をたてながら、まゆの指が秘部をこねる。間接的なクリトリスへの刺激が、いつしか直接的なものに移行していく。

「き、気持ちいいっ……あああ……ああっ」

 保健室の静寂を、パイプベッドのきしみと、粘膜の湿った擦過音がかき乱していく。

「もっと……奥……をっ」

 指先に唾をなすりつけ、一番感じる部位にこすりつけていく。オナニーを数多くするうちに、感じるポイントがどんどん広がり、その深さも増していた。クリトリスの裏側あたりから、尿道口のあたりまで、少し強いくらいに刺激することで、腰がぬけるくらいの快感が得られる。

「ひゃうっ! そこぉ!」

 足がつりそうなくらい突っ張って、腰を高く浮かせる。絶頂が近づいてくるのがわかる。それでも声をあげてはいけないという自制がはたらき、まゆは歯を食いしばった。

「くっ……うううっ!」

 もうすぐだ。もうすぐイける。

「はあっ、あああああっ!」

 ベッドをカタカタ揺らしながらまゆは絶頂をかけあがっていく。

 その、ときだ。

 戸が開く音がした。

『ほんとうにここでするんですか……?』

 戸惑ったような少女の声が聞こえてきた。

 まゆはベッドの上で凍りついた。