「そんなこと、できません」
まゆはきっぱりと言った。
「わたし、入学はあきらめます。ありがとうございました」
立ちあがり、試験官に一礼した。できればパンツも返してもらいたかったが、それよりもなによりも、すぐにここを立ち去りたかった。
きびすを返すと、後を振りむくことなく、教室を出た。
試験官は無言だった。
廊下に出たまゆは、戸板にもたれかかって大きく息をついた。
「落ちちゃった……。おにいちゃん、ごめんね」
つぶやくと、涙が出そうになった。
それでもなんとか気を取り直して廊下を歩きはじめる。
すると、行く手からスーツ姿の女性が走ってきた。軽くウェーブした髪を肩まで伸ばした、銀縁眼鏡がよく似合う理知的な印象の女性だ。
まゆの姿を認めると、女性は早口で言った。
「あなた、受験生? どうしてこんなところにいるの?」
まゆは目をしばたたかせた。
「え……でも、こちらが面接試験場のはずでは……」
「変更になったのよ。学内の掲示板に書いてあったでしょう? 見なかったの?」
そういえば、人だかりがしていたような気もする。が、その場を早足で突っ切ってしまっていたのだ。
「えええ、じゃあ、試験は!?」
まゆはパニックになりかける。
「別の校舎でもう始まっているわ。あなた、受験票は?」
「こここ、これです」
震える手でかばんからカードを取り出す。女性はそれを一瞥すると、真剣な中にも微笑みを浮かべた。
「急げばまだ間に合うかもしれないわ。それに、急な変更はあなたのせいじゃないし。さ、行きましょう。案内してあげる」
「は、はいっ!」
まゆは女性の後を追って走りはじめた。
「あなた――七瀬さんだっけ――受かるといいわね。わたしは今度、新入生のクラス担任になるの。今泉よ」
「い、いまいずみ、せんせい」
「なりたてだけれどもね」
女性は――今泉教師は廊下を駆けながら、いたずらっぽく笑った。
面接の順番には――なんとか間に合った。ただし、開始から一分間は息がおさまらなくて、まともに受け答えができなかったが……。
試験官は三人いて、そのうちの一人――教頭先生らしい――が、まゆの母親のことを憶えていた。おかげで面接の時間の後半はまゆの母親のことで話が弾んでしまい、まゆ自身のことはほとんど聞かれなかった。
「はい。もう結構ですよ」
にこやかに教頭が言った。
「はいっ! ありがとうございました!」
すっかりリラックスしたまゆは勢いよく立ちあがった。その拍子にスカートの裾がひるがえった。まゆはなにも気づかず、お辞儀をして退室していった。
残された三人の試験官はしばし無言になる。
「あの……さっきの生徒ですが、下着……」
教頭が言いかけて、やめた。それからおもむろに眼鏡を外してレンズを磨きはじめた。
「……気のせいでしょうな。次の子を呼びましょう」
まゆは解放感で笑みくずれながら学内を歩いていた。
合否はともかく、まずは終わった、という充実感があった。それに、面接の内容もなごやかで、特に不安になるようなことはなかった。教頭先生はまゆの母のことを実にまじめで優秀な生徒だったと褒めてくれ、その死を心から残念がってくれた。
『それでは、きみはお母さんの分もこの学園でしっかり勉強しなくちゃいけないね』
というセリフは、合格内定したのではないかとさえ期待させる。
まゆは、もしかしたら春から通うことになるかもしれない学校の校舎や校庭を見まわしながら、歩くことを楽しんでいた。
と。
目の前を白いものがよぎった。
白衣だ。
まゆは思わず目をこらした。
さっきの試験官だ。白衣の。へんな。
その男は手にデジカメを持っていた。構えては写真を撮っているが、その被写体はクラブ活動をしている女子テニス部員のようだ。アンダースコートがちらりと見えるたびにシャッターを押している。
「鏑木先生!」
白衣の男に誰かが呼びかけた。見た顔だ。今泉という女教師である。
「またそんなところで写真を撮ったりして! それに、今朝からずっとどこに行ってらしたんです? 試験会場の変更で迷う受験生が出ないよう、誘導する役だったはずでしょう?」
「ああ、今泉涙花先生じゃないですか。今日もお美しい」
「冗談はやめてください。ひとり、受験生が場所を間違って、もうすこしで失格になるところだったんですよ!」
今泉の剣幕に、鏑木と呼ばれた白衣の男は不思議そうに首をかしげた。
「おかしいな。ちゃんとわたしは持ち場にいましたよ」
それから、鏑木は、少し離れて立ち止まっているまゆに気づいて、うっすら笑みをうかべた。
「ああ、そういえば、かわいらしい獲物が罠にかかりかけて、すんでのところで逃げていきましたっけ。もっとも、皮一枚は剥ぎましたが」
鏑木は白衣のポケットからビニール袋を取りだして見せた。むろん、傍から見ただけでは、袋のなかに白い布らしきものが入っていることしか見て取れず、それが女の子用の下着であるとはわからない。
ただし、当事者は別だ。
まゆは、はっとしてスカートを押さえた。慌ただしくて忘れていたが、まゆはいま、ノーパンなのだ。
鏑木と今泉は話し合いながら――ほぼ一方的に今泉が責めているっぽいが――立ち去っていった。鏑木の悪戯っぽい最後の笑顔が印象に残る。
(あのひとも――先生だったんだ)
まゆはわけがわからないまま、スカートを押さえて立ちつくしていた……。