少女は殻(シェル)のなかで眠っていた。
その睡眠は、海面を見あげながらたゆたうような、穏やかなものだった。
夢さえ形にならない。
そんな、おぼろな、無と有の境界線上にあるような状態が、どれくらい続いていたろう。
声が聞こえた。
――ジカン……ダヨ
それは不思議な声だった。ひとりの声なのに、幾つもの言語が重なっているように聞こえた。さまざまな音韻の言葉――それでいて、意味はひとつ――そんな呼びかけだ。
――メザメル……トキガキタヨ
(だれ?)
少女は軽い不快感を抱きながら問いかける。この安穏とした状態が変化するのは歓迎したくなかった。それに――不安だ。
(だれが呼んでいるの?)
疑問が強くなっていく。声はするが、姿は見えない。そしてその声はすごく自分に身近な存在のもののようで、まるで憶えがない。
いや、それ以前に――
(だれなのか――わからない――わたしは――だれ?)
少女はその問いに気づいてしまう。その瞬間に、あたたかな海のイメージが変化する。うそ寒さがしのびよる。
――メヲアケルンダ
声が励ますような響きを帯びた。少女はその声の主にむけて手を伸ばした。なにかにすがりたかった。でも、声はただ聞こえるだけで、少女自身、自分がどちらに腕をさしのべているのか、わからない。
と、大きな掌の感触が少女の小さな手に伝わった。引きあげられていく。まどろみの海の底から、少女はいま。
――ソウ、キミノバンガ、キタンダ
声が最後に耳に残った。
(わたしの――ばん?)
目を開いた。
あたりは薄暗かった。頭の上あたりで、ちかちかとグリーンとオレンジのライトがまたたいている。
少女は自分の周囲を包むとろりとした液体の存在に気づく。
体温よりもすこし低いくらいか。透明で、匂いも味もしない。
少女は底の浅いバスタブのようなものに横たわるようにしていた。もちろん一糸とてまとっていない。仰向けになっていてもいささかも形のくずれないバスト、そしてなめらかな曲線を描くスロープは、きゅうっと締まったウェストから、適度に張りだした骨盤まで続いている。そして、まっすぐの長い脚。
少女は思わずため息をついた。それが自分であるという認識はなかった。ただ、美しいと思って感嘆したのだ。
白い肌の上を濡れた髪が這っている。少女はそれを指にとる。長くて、つやつやしている。毛先が不揃いなのは伸びるに任せていたからだろうか。
その時、小鳥のさえずりのような電子音が鳴って、浴槽の内壁の一部が四角い窓になった。
少年の顔が画面に映った。メガネの似合う理知的な風貌だ。髪の色は少女と同じ栗色で、さらさらとしている。
「おはよう、朱理」
笑顔だ。だが、どことなく疲労しているように見える。頬の肉が落ちて、やつれたような印象がある。
「あなたは、だれ?」
少女は窓――モニターだ――に向かって質問した。
だが、少年は変わらぬペースでしゃべり続ける。
「突然のことで驚いただろう。きみには記憶がないはずだ。きっと、不安だろうが、きみについてのデータはすべてここに用意してある」
モニターの下にまた窓が開いて、そこから小さなディスクが吐き出された。
「また、深層意識にシールドされているきみ自身の記憶――たぶん子供のころのことだとか――もおいおい蘇ってくるはずだ。なにも心配することはない」
少女はディスクに手を伸ばしかけて、やめた。少年は肝心なことを教えてくれていない。
「待って、あなたはだれなの? わたしはどうしてこんなところにいるの? わたしは、いったいだれなの?」
だが、少年は黙って少女を見つめている。
しばらくして、少年が口を開いた。
「おはよう、朱理」
そして、さっき言ったことを繰り返す。
少女はあきらめた。とにかく、ディスクの中味を確認して――端末はきっとこの部屋にあるのだろう――バスタブに、いや、賦活シェルのふちに手をかけた。
たしかに――と少女は思った。
すこしずつ思いだしている。ディスクの意味やその扱い方――それを見れば、自分のこともだいたいわかるにちがいないということも――そして、少年がだれなのかも。
「がんばるわ――兄さん」
少女はつぶやきながら、ディスクを抜きとった。