「シンダラーさんは、どうして日本に来たんですか?」
木漏れ日が降り注いでいる。
静かな午後だ。
今日は食料探しはお休みにした。ストックは充分にあるし、足りなくなれば森にふんだんに食料はある。
人間は豊かな自然に抱かれていれば、一日に十数時間も労働しなくてもいいのだ。縄文時代には、人間は数時間しか働かなかったという説もあるくらいだ。
シンダラーは熱心にリストに注釈を書き加えていた。かれは時間があればいつもそうやって研究を続けているのだ。
「おーう、マーナ、なにかいいましーたか」
夢中になっていたらしく、真奈の質問を聞きそこねたらしい。顔をあげて、わりと近くに下着姿の真奈が腰を降ろしているのに気づき、顔を赤らめる。
真奈もシンダラーの視線が一瞬どこを探ったのかを意識している。股間は汚れているから隠さなきゃいけない。胸の谷間くらいは見せても大丈夫だろう、そんな計算をどことなくしながら、シンダラーの反応を楽しんでいる。
ハルキがいたら、「真奈おねーしゃん、はしたないでし!」とか言うかもしれない。だが、ハルキは遊び疲れて、いまはお昼寝中だ。その点は幼稚園児なのである。
「どうして日本に来たのかな、と思って」
「おーそれーは、ニポーン、わたーしだいすきーね。わがくにーにはかなわないまでーも、ふるーいふるーいれきーしとブンカがありまーす。それーも、とってもユニックねー。だから、ニポンでベンキョしたいとおもったーよ」
「へえ……」
外国から見たらそんなふうに見えるのだろうか。真奈は不思議だった。日本は先進国で豊かだ。だから外国から出稼ぎに来たりしているんだろう、といった漠然としたイメージしかなかった。
「たとえーば、ノウというものがありまーす。あれーは、インディアーの舞踊劇と、共通点がありまーす。でもー、ぶたーいのつくーりなどーもおもしろいでーす。空間の使いかたーが、独創的でーす」
「はあ」
シンダラーが嬉々として語る内容は真奈にはほとんどチンプンカンプンだ。日本の歴史や文化について、日本人である真奈のほうがはるかに無知らしい。恥ずかしいな、と思う反面、この奇怪なインド人が頼もしく感じられた。
――そうよね、わたしとハルキくんがここで飢えずにすんだのも、シンダラーさんのリストのおかげだし。まあ、ムシはちょっとアレだけど。
「そうだ。シンダラーさんのリスト、またページが増えたんですか?」
真奈は、シンダラーの手元を覗きこんだ。リストは日に日にぶあつくなっていく。それにともなって、新しい役に立つものが増えていくのだ。
新しいリストのページには、なにやら人型の絵が描かれている。細密なスケッチである。女性らしい姿と、子供らしい姿だ――。なんですか、それ、と訊こうとして、真奈はシンダラーに近づきすぎた。
「あ」
肩がシンダラーに触れた。ブラで包まれた胸の一部がかるく擦れる。
「ひょっ」
シンダラーが鼻をおさえる。まずい。
「あ……ヘイキでーす。こらえまーした」
深呼吸しながら、シンダラーが言う。真奈はホッとする。周囲が血まみれになるのはかなりいやだ。
「どーやら、視覚が引き金になるみたーいでーす。感触や、匂いだけなーら、ヘーキなのでーすが」
シンダラーが残念そうに言う。
「……シンダラーさんって、女のひとがきらいなんですか?」
シンダラーが落ちつくのを待って、真奈はちょっと距離をおいて座りなおした。
「きらいじゃないでーす。うつくしーとおもいまーす。とくーにマーナは……」
言いかけてシンダラーはまたも顔を赤らめる。真奈も照れて視線をそらす。
すこし微妙な空気が二人のあいだにながれる。
「わたーしも、じぶーんの体質がうらめしーでーす。だかーら、このトーシになるまーで、恋人ができませーんでした」
それは必ずしも体質のせいだけでは――と言いかけて真奈はとどまった。
「デートまではこぎつけーるのでーすが、だめでーした。いざーとなると、鼻血ブーで、かのーじょもベッドーも血まみれでーす。みんな怒ってしまいまーす」
シンダラーは寂しげにつぶやく。
真奈もちょっとかわいそうだな、と思う。かなり特異な外見ではあるが、彫りが深いと言いかえられなくはないし、なによりも気性が穏やかで親切だ。モテモテ、というわけにはいかないだろうが、それなりに恋愛経験をしてきてもおかしくはない。
「だいじょうぶですよ、シンダラーさんも、きっとすてきな恋人ができます」
「ムリムリでーす。わたーしには、いっしょー、おんなのひとは縁がありまーせん」
「そんなことないですって。少しずつ慣らせば、きっと」
「どうやって、でーすか?」
「それは……」
言いかけて、真奈はつまった。どこの世界に裸を見たら鼻血ブーな男に、そういう手ほどきをしてくれる女性がいるだろうか。
「……わからないけど」
真奈の声がトーンダウンする。シンダラーは笑顔をうかべる。なにか、達観したような表情だ。
「そのとおりでーす。わたーしは、あきらめているのでーす。一生、わたーしは美しいものを見ることなく朽ち果てていくのでーす」
「そんな、あきらめたらだめじゃないですか!」
真奈は声を励ました。このまま落ち込まれたら、こっちまで後味が悪い。
「努力すれば、きっと慣れますよ。だって、視覚が引き金になるって言ってたじゃないですか。さっきも肩が触れたけど、だいじょうぶだったし」
「見てしまったーら、もーブーなのでーす。触れるだけなーら、なんとかなるのでーす」
「じゃあ、目をつぶって触ってみたらどうですか?」
「なにをーですか」
「だから、胸を」
「だれのーですか」
シンダラーが真顔で訊く。真奈は、あれれ、と思った。なんだか、雲行きが……
ええいっ、ままよ。
「わたしのを、です」
真奈は答えてしまっていた。