太助は扉を開いて外にでた。
「ふりかえらずに、閉めるんだ」
アマンダは言われたとおりにした。
そこは楽天荘の玄関の外である。
「――おかえり」
貴水小夜子が立っていた。
「早かったわね。五分も経っていないわよ――」
太助は空をあおいだ。まだ太陽は沈みきっていない。太助は、いままではまったく意味をなさなかった腕時計を見た。
「午後六時すぎか……やっぱり、こっちとあっちでは時間の流れかたがちがうみたいだな」
太助は唇をかんだ。
「タスケ、ハルキはだいじょうぶネ?」
アマンダが心配そうな声をだす。
太助ははげますようにアマンダの肩を抱いた。アマンダがすがりついてくる。
「こわいヨ。ハルキがいなくなったらと思うと――」
「どうやら問題がおこったみたいね」
冷静さをいささかも崩さず、貴水小夜子が言った。
真奈は異様な物音に眠りをさまたげられた。愉快ではない。疲れきった身体は声高に休息をもとめている。
「……んん〜、なに……あひゃっ!」
驚いたのは、制服の前がはだけられていることではない。ブラジャーのホックがはずれて胸が露出していることでさえない。
恐怖に絶叫しているハルキの姿と、それにのしかかろうとしている巨大な人影、そして、その人影が発している液体。
それは!
「はなぢぶーでし」
恐怖の発作から脱却したハルキが指摘した。
よく見ると、夜目にも白いターバンを頭にまいた巨漢はハルキを襲っているのではなかった。顔をおさえてへたりこんでいる。指の間から血がたらたらと流れている。
「それに、よくみたら、しってるひとでし。おとなりのシンダラーさんでし」
「――というと、インドからの留学生?」
巨漢はコクコクとうなずく。そして、英語なまりの日本語で言った。
「すみませーん、ちょといいですかー。ムネ、かくしてくださーい、ドゾヨロシク」
真奈はようやく、自分が半チチ状態でいることに気づき、あわてて前をかき合わせた。
* ――
火を囲むと、ほっとする。
枯れ木に火をつけて焚いた火だ。ライターをシンダラーは持っていた。
「じゃあ、シンダラーさんはもう二週間もここにすんでいるんだ」
「そうでーす。たべものをさがしたりー、あー、燃料をさがしたり、たいへんでしーた。もとの世界ではまだ一日しか経っていないなんて、信じられませーん」
インドから小徳大学に留学して七年目のシンダラーさんは、インテリ風の銀縁めがねをついと指であげて言った。むろん、両の鼻の穴には特大のティッシュ栓がつめられている。その鼻の穴の大きさは、さすがアーリア系だと真奈を感動させたほどだった。
ターバンを頭にまいてはいるが、服装はふつうのシャツとスラックスだ。しかしながら二週間におよぶ異次元での生活で、すっかりよれよれになってしまっている。その哲学者然とした風貌とあいまって、まるでヨガの行者を思わせた。
「シンダラーさんはべんきょーしかしないひとだとおもってましたでし。いがいにせいかつりょくがあるんでしね」
「あたしはハルキくんのボキャブラリーがどっから来ているのか知りたいけど」
真奈はハルキを横目で見てつぶやくように言った。
「この岩山のふもとには森と川がありまーす。その先は海なのでーす。森には食べるものがけっこうありまーす。危険な動物もいませーんし、住めばミヤコはピンクのデンワ、リバウンドでバブーン、でーす」
「でも、どうやって、あたしたちのことを見つけたんですか?」
「おー、それはかんたん、タジマハールねー。わたしもあの岩山にさいしょにおりたちました。救助がくるとしたらやっぱりあそこだろうと、ヒマがあればみあげていたです、ガンジー」
「そっかー、たしかに、この岩山を歩いていたら、下からもわかりますよね。木が一本もないし」
「ごめんなさいでし、ぼくたちもソーナンしたんでし」
「オーオー、そんなことはドンマイシマッテコーね。わたしうれしーよ。いっしょにくらすファミリーでけたのですから」
長身のインド人は巨大な手を左右にふった。
「ファミリー?」
問いかえす真奈に、シンダラーはちょっとはにかんだように、
「そでーす。わたーし、こーゆー自然のなかーでくらすこと、夢見てましーた。でもー、ひとりだとちょとさびしーのでーす。このままこの世界でくらすとしたらー、みんなでたすけあわないといけませーん。マーナとわたし、そしてハルキ、三人はファミリーになって、あたらしい家庭をきずくでーす」
「もちろん、力はあわせないと」
真奈はうなずいた。なにしろ、異世界に三人きりなのだ。分裂したってしょうがない。
だが。
その時、スックと立ったのはハルキだった。
「だめでし! まなねーしゃんはぼくとふたりでくらすんでし。もー、ぼくらはAはおろかBまですましているこいびとどーしなんでしから」
シンダラーは目をまるくして、ハルキと真奈とを見くらべた。
「ホンマでっかー?」
「子供のいうことを真にうけないでください! それになんで関西弁なんですか!」
「うそじゃないでし! さっき、Bまでいったのでし! おっぱいをさわったし、パンツごしにアソコもさわったでし!」
「ハルキくん!」
真奈はきゅっと胸をだきしめて、思わず声を高くした。
「オパーイ、それに、アコーソ……」
さっきの映像を脳裏によみがえらせてしまったのだろう、シンダラーの目がみるみる充血し、顔がどす黒く変色した。ばっと、手で鼻をおおう。しかし、ちょっと遅かったようだ。
すぽっ、とティッシュの栓が飛び、さらなる噴流が周囲を修羅場のように赤く染めたのであった。
*――
さいわい出血死をまぬがれたシンダラーだったが、貧血のために翌朝起きることができなかった。そのかわりに真奈とハルキがふもとの森に入った。
さっそく食料集めにかかる。
シンダラーから渡されたのはぶあついリストだった。詳細なイラスト入りでさまざまな木の実や草の種、根茎のたぐい、茸類などなどの解説が載っている。そのすべてについて、「食べられまーす」とか「ちょっと下痢しそーでーす」とか、「これ食べたら死ぬでーす」などと書いてある。中には昆虫類や正体不明の軟体動物まで含まれていて、それらについても味についての説明がある。
「――よくこんなものまで食べてみる気になるものね」
シンダラーのリストを見ながら、真奈は全身にジンマシンがでてきそうだった。
「シンダラーさんってなんの勉強をしている人なの?」
「しらないでし」
ハルキは朝からずっと真奈から離れようとしない。シンダラーが真奈に近づくのにとても神経質になっているようだ。
(まあ、おかあさんのかわりなんだろうな)
と真奈は思うようにしている。
どうやら食べられるものを集め、シンダラーがねぐらにしている大木の根元のうろに運んだ。わらびに似た植物や木の実、芋のようにふくらんだ地下茎など、まあ害がなさそうなものばかりだ。シンダラーのリストで「おすすめ! 美味でーす」と書かれていた昆虫のたぐいは採取しなかった。
シンダラーはかまどを石で作り、金属製のナベも持っていた。それだけではない。インドカリーのパウダーの缶までもあった。どうやら、異界にとばされた瞬間でさえ、ナベや調味料を肌身はなさず持っていたようだ。
「これはインド人のたしなみでーす。いつでもどこでもカリーがつくれるようにしないと、生きていけませーん」
休んだせいか、多少血色がもどったシンダラーが大きくうなずきながら言う。
ほんとですか。
とは真奈はつっこまない。おかげでカレー味のシチューが食べられるからだ。
シンダラーに味つけをまかせると、とんでもなく辛いものになりそうなので、真奈が自分で調理した。子供の舌にもマッチしたマイルドカレーにしたてあげる。ハルキはよろこんで食べたが、シンダラーはこっそりカリーパウダーを自分の椀に追加していたようである。
昼の食事をすませ、なんとか人心地がついた。
「それにしても、すごいリストですね。なんだか森のあらゆるものを網羅しているみたい」
真奈はシンダラーのリストについて感嘆をもらした。
シンダラーは照れたように高い鼻の頭をかく。
「いやー、それほどでもあるでーす。わたーしにとってーは、ここは研究対象がいぱーいの、夢のよーな世界なのでーす」
「なちゅらりすとでし」
ハルキがむずかしい言葉をつかう。
「ここーはほんとーにすばらしーところなのでーす。森のさきーの海は、もっともっとすばらしーでーす」
シンダラーが力説した。
「ふうん、海かあ……。ゆうべ、お風呂に入れなかったのよね……」
正直なところ、身体をすすぎたくてしかたがない。森の中には小川はあったが、そこでできるのは顔や手を洗うぐらいだったし――でも、海で身体を洗ったら塩でベトベトになってしまうだろうし……。でも、海は見てみたい気がした。
「どーしまーす? 海へいってみまーすか?」
「うん……」
太助が救出にきてくれることは確信しているものの、この空間の時間の進みかたが現世よりも早いことを考えると、救助まではまだ数日かかりそうだ。となると、ただ無為に待つだけというのはあまり能がない。
シンダラーのリストを見るかぎりでは、この世界には危険な外敵はいないようだし、さしあたって道連れは幼稚園児と女の肌に極端によわいインド人だ。貞操の危機もほぼないといえる。
「うん、やっぱり興味あるし、行きましょう」
「まなねーしゃんがいくなら、ぼくもいくでし」
「おー、きまりでーす。それでは、さっそくしゅっぱつしましょーおー」
シンダラーはうれしそうに叫んだ。