春である。
その証拠に、桜が咲いている。
ぽかぽか陽気につつまれた、三月下旬のある日。
おれは大きな荷物を背に、手にした地図を見直した。
たしか、このあたりのはずだが……。子供のころの記憶と、いまの町並みはまったくちがっている。昔はこんなにマンションばかり建ってはいなかった。
だが、角を曲がると、記憶と風景が一致した。垣根で囲まれた広い庭、大きな松の木、築山――時代から取り残されたような平屋の日本家屋。白壁の土倉まである。
ほんとうに都内の光景なのか、目を疑いたくなる。だが、まちがいなく、そこはおれが幼少のころ、一時期ながら暮らしていた家だ。
黒塗りの外車が路駐されている、その横を通って、おれは、古びた門の前に立った。
表札には宇多方、とある。
祖父の親友だった宇多方源造の家である。
宇多方家には、源造じいさんと五人の孫が暮らしていた――はずだった。
門扉は半ば開いている。中から、押し問答のような声が聞こえた。
「とにかくよぉ、この家と土地、うちが買い上げてやろうってんだ――悪い話じゃねえだろう?」
「そのお話はもうお断りしたはずです」
「子供だけでこんな家屋敷、管理できるわけねえだろ? うちの話に乗った方が得だぜ、お嬢ちゃん」
黒い背広姿の男がこちらに背中を見せている。ポケットに手を突っ込み、威嚇するような姿勢をとっている。
いっぽう、相対しているのは一五、六歳の女の子だ。掃除の途中だったのか、竹箒を手に、打ち水用の桶を足もとに置いている。
「家を売って、金持ちになりゃ、遊んで暮らせるようになるんだぜ? そのほうが妹たちも幸せなんじゃねえか? こんなボロ家にしがみつかなくったって……」
女の子が表情をかたくする。優しそうな顔立ちに、一瞬厳しさがやどる。
「お帰りください――もうお話はありません」
「おい――ふざけるなよ? 大人の言うことをもっと素直にきけるように、教育してやろうか」
「なにを……」
男が女の子の腕をつかむと、強引に抱き寄せた。
「へっへっ、事務所まで来てもらおうじゃねえか。そこで、契約書について、みっちり説明してやるよ。ハンコを押さずにはいられないようにな」
「やめて、くださ……はなしてっ!」
うーん。
まずい時に来てしまったなあ。
おれはケンカは苦手なんだよな。あの男、怖い職業の人っぽいし……
そうだ。こういう時こそ、宴会芸の出番だ。
ピーポーパーポー
おれはサイレンの口まねをした。自分でいうのもなんだが、猫ひろしにも匹敵するクオリティの高さだ。
「むっ!? パトカー?」
おれの熱演に、男が動揺する。あちこちを見回しはじめる。よし、もう一息だ。
キーッ、キキッ!
コッチデスコッチデス、オマワリサン! ヤーサンガオンナノコヲラチシヨートシテイマスッ!
ムッ、ソレハケシカラン! タイホダ、タイホダ!
「なにしてる、てめえ」
門の脇で声色をつかっていたおれの目の前に、男が立っていた。ひどく殺伐としたお顔だちをしていらっしゃる。
「え? あ? そのー、なんてゆーか……てへっ」
おれは返答に困り、作り笑いを浮かべた。落語家だったら、扇子でおでこをペチンと叩いているところだ。
「遊一さん!」
女の子がおれに気づいて声をあげた。あれ、おれの名前を知っているってことは――
ずいぶん女の子らしくなっているけど――長い黒髪、大きな、たれ目がちなお目々――
「一子ちゃん!?」
「ふざけんな、ゴラアっ!」
あう。殴られた。
「ほんとうにごめんなさい……こんなことになってしまって」
おれの頬に絆創膏を貼りながら、一子ちゃんがわびた。
宇多方家の座敷。畳がいい匂いだ。きれいに掃除されている。
けっきょく、あの男はおれをぶん殴ると、騒ぎになるのを怖れたのか、クルマに乗って帰っていった。
まあ、殴られたおれが大声で「犯される〜ッ」とか「顔はイヤァッ!」とか、泣き叫んだからな。はっはっはっ。
「いやあ、それにしてもひさしぶりだね……十年ぶりくらい?」
「はい」
それにしても、女の子って変わるもんだ。可愛く育ってくれちゃって。
座敷のなかを見回した。仏壇がある。位牌と遺影。
「おじいさん……亡くなったんだよな……」
「ええ、先月……遊一さんが下宿されるのを楽しみにしていたんですけど」
横顔を見せて一子ちゃんが言った。
そうなのだ。この春から都内の大学に進学することになったおれを、宇多方のじいさんが下宿させてくれることになっていたのだ。
その矢先に、じいさんがポックリ逝ってしまった。残されたのは15歳の一子ちゃんを頭に、中学生の気恵、小学生の苑子、美耶子、珠子の五人姉妹。
こりゃあ、下宿どころではないとあきらめかけたのだが、一子ちゃんから、予定通り下宿してほしいとの連絡が入ったのだ。
「祖父の遺言のようなものでしたから……」
「そっか……でも、助かったよ。うちカネないから、下宿先が見つからなかったら、進学もパーになってたかも」
まったくその通りで、うちの両親が進学の費用を出してくれたのも、宇多方家に下宿する、という条件があったればこそだった。理由は、またのちほど。
「にしても、あの男、だれ? なんの話だったの?」
ヤーサンっぽかったけど、純粋なヤクザというわけでもなさそうだった。契約がどうの、とかいってたし。
「草薙組っていう不動産屋さんです。祖父が亡くなってから、家を売れって言ってくるようになって……マンションを建てたいんだそうです」
「たしかに、このへん、マンション増えたよね。昔は一戸建てばかりだったのに」
「でも――この家は売りません。祖父の遺言もありますし……両親との思い出も詰まってますから」
一子ちゃんが遠い目をする。彼女たち姉妹は両親を早くに亡くしているのだ。
「それに、この家があったからこそ、遊一さんも来てくださったんですから」
にっこり笑う。うわー、なんて邪気のない笑顔なんだ。ちょっと、良心が痛むなあ。
「長旅でお疲れでしょう――お風呂とご飯の支度をしますから」
一子ちゃんはそう言うと、いそいそと奥に引っ込んでいった。