***

「まゆを……お願いします」

 おれはまゆを雪江の手にゆだねた。

 雪江は微笑みながら、うなずいた。

 その豊かな胸にだかれて、まゆはなにかをつぶやいた。

 ママ、といったのかもしれない。眠りのなかで、母に抱かれた夢でもみたのだろうか。

「ありがとう。いろいろあったが、わたしはきみを見直したよ」

 貴之が手をさしのべる。

 それが握手の誘いであると気づいたときには、大きな掌の感触が通りすぎた後だった。

「会社にはよく言っておく。むろん、今日の欠勤は有給扱いだよ。なんならあと数日、休んでもかまわない」

 貴之の言葉はおれの耳を通過していた。なんの意味もない音の羅列だった。

 運転手がリムジンのドアをあける。

 雪江がまゆを抱いたまま、後部座席に乗りこむ。

「荷物は、あとでまとめて送ってもらえばいい。こちらで手配する。まあ、すべて買い揃えてあげるつもりだがね」

 貴之が言いつつ、リムジンにむかう。

 ――たからもの

 心臓がはねた。ジャケットのなかの封筒。

 ふたりの写真。

 それを渡してやらなければ。

 たからものを返してやらなければ。

 まゆ。

 おれは封筒をポケットから出そうとした。ひっかかった。

 まゆ。

 リムジンのドアがゆっくりと閉まる。

 まゆ。

 封筒の一部が裂ける。ぴりぴりと紙が破れる音がする。

 まゆ……

 運転手が運転席に着いて、そして――

 おれの手には、半分にちぎれた紙片があった。

 リムジンは走りだしている。

 おれも走っていた。

 破れた写真をつかんでいた。

 リムジンが速度をあげる。

 後部の窓ガラスに、まゆの顔が見えた。

 目がさめたのか。

 おれを見ていた。なにか、叫んでいる。

 暴れているようだ。

 リムジンは止まらない。おれの心臓は爆発しかけている。

 それでも走りつづけた。

 写真を渡してやりたかった。

 走っている、つもりだった。

 だが、目の前にアスファルトがあった。足がもつれて、倒れていたのだ。

 リムジンは小さくなっていた。もうほとんど見えない。

 手のなかの写真の切れ端は、どこかに落としてしまっていた。


エピローグ

 時間がすべてを解決するという言いかたは好きじゃない。

 それでも、時間がいろいろなものを薄めるのは事実のようだ。

 ――あれから、もう五年になる。おれも三十を超えた。

 あのあとすぐ、おれは会社をやめた。

 根拠のない厚遇を受けるのがいやだったこともある。

 だが、なによりも、安定した生活のためにまゆを捨てた、と思いたくなかったからだ。

 しばらくアルバイターを続け、そしていまの会社に再就職した。ちいさな出版社だ。絵本や点字本などを手掛けている。赤字スレスレの経営だが、未経験のおれをよくも雇ってくれた。

 給料は安いが、おもしろい仕事だ。布をつかった、手でさわる絵本や、指でこすって音を楽しむ本、匂いのする本など、かわったものが手掛けられる。それに、読者は子供たちだ。たまに、すごい字の手紙がきたりする。

 子供たちの本にかかわりたいと思ったのは、まゆの子供らしさを奪ってしまったことに対する罪ほろぼしの意味もあったかもしれない。

 でも、じきに仕事のおもしろさにとりつかれた。

 だから、恋人もつくらなかった。できなかった、というべきか。

 半分にちぎれた記念写真は、いまもおれのアルバムに貼られたままだ。それは甘美な思い出ではない。いまでも、ページをひらくたびに、自分の犯した罪の深さを思い知る。

 少女と関係をもったことについてではない。あれは必然だったと、いまでも思う。

 まゆを見捨てたことだ。さよならも告げず、わびることさえできず、ありがとう、とさえ言えなかった。

 それが重い罪悪感となって、恋をしようという気になれない。

 心の、その隙間を仕事がうめてくれた。仕事のおもしろさを教えてくれたのは、社長だ。

 社長はおれより三つ年上の女性で、離婚歴がある。子供もいる。七歳の男の子だ。健也という。おれに、なついている。

 たまに、社長の家に夕食に呼ばれることがある。健也と二人で料理をするのが楽しい。ちなみに社長は料理が苦手だ。実はいいように使われているのかもしれない。

 それでもいいかな、と思う。自分のものではないが、家庭というものに触れるのは、心地好かった。

 その日も、社長に半ば命じられて、健也とふたり、街に夕食の買い出しに出ていた。

 夕刻にはまだ届かない午後の時間。商店街のアーケードは買物客でごったがえしていた。

「健也、はぐれるなよ」

「おじさんこそ」

「おじさんはよせ。おにいさん、とか言えないのか」

「三十すぎのおっさんが、よく言うよ」

 母親に似て、口の悪い健也が憎まれ口をたたく。

「おにいちゃんって、呼んでほしいわけ?」

 その口調がなにかを思い出させた。

 そして、その香り。

 鼻先を長い髪がなでる。

 最近の女の子は背が高いな、と思ったのもつかのま、深い場所に刻まれた記憶がふうっと浮かび上がってくる。

 中学生だろうか、華奢な体つき、それでも、女性らしさをたしかにそなえた肢体。

 その後ろ姿におれは引き寄せられた。

 言葉が喉の下まで押し寄せていた。でも、なにを言おうとしているのか、自分でもわからない。

 少女が、わずかにふりかえった。ほほえんでいるような、困っているような、複雑な表情。

「――おにいちゃん」

 そう、唇が動いたような気がする。

 おれは、目をとじた。

 少女がこちらを振り返るのを、直視できなかった。

 さよなら……あの時、いえなかったから……

 声のない言葉が耳にとどいた、ような気がした。

 おにいちゃん、しあわせそう……だから、いうね……

 さよなら……

 そして、ありがとう……

 風は言葉をはこんだ。それはおれの耳に、こころにとどいた。

 まゆ……

 大きくなった……

 そして、きれいになったね……

 おれこそ、

 ありがとう……

 その言葉は伝わったろうか。

 たとえ伝わらなくても、いつかきっと、誰もが自分で答えを見いだす日は来るのだ。

 そうでなくては、生きて、愛して、そして別れることは、ただ悲しいだけだ。

「おじさん、おじさんってば」

 ズボンを引っ張られて、おれは気がついた。

 雑踏のなか、立ちつくしている。

「夕飯の買い物、いそがないと、ママにまた叱られるよ」

 健也が言う。

 おれは現実に立ち戻った。

「ああ、うまいもの作って、社長をびっくりさせてやろうな」

「うん!」

 健也が幸せそうにほほえむ。

 いまは、この笑顔を壊すまい、と思った。

 そのためにできることをしよう、それが答えを見いだす道なのだ、と。

おしまい


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