現実は味のない料理のようなものだと思っていた。
人並みかどうかはわからないけど、恋もしたことがあるし、友人もいた。
でも、じきにそれはなんでもないことのように流れさってしまうことがわかった。
なにものこらない。
なにもかんじない。
生活という名の懲役をかせられた咎人のように、おれは死なないでいたにすぎない。
それをかえたものがある。
灰色のページに朱のひと掃きをくれたもの。
それがまゆだった。
孤独な少女の魂はおれを共振させた。
まゆもそうだったのだろう。
だから、おれたちは惹かれあった。
結ばれたのは必然だ。
でも、それを現実の世界で維持するのにはむりがあった。
あと十年、時間がずれていたら、なんの問題もなかったはずだ。
なんの問題も……
レールの継ぎ目を車輪が通過する単調な響き。
聞きなれた駅のアナウンス。
何度聞いたろうか。
朝のラッシュアワーをすぎた山の手線は、春の陽射しを車内に吸いこんで、けだるさに包まれている。
向かい側に座っている老人はさっきから船を盛大にこいでいる。
まゆも。
寝息をたてていた。髪には落としきれなかった葉っぱのきれはし。
――結局、東京へもどっていた。
でも、アパートに帰る勇気がでなくて、山の手線に乗りつづけている。
財布のなかは空だった。
おれにはまゆを連れて逃げつづける力はなかった。
笑ってしまうほど子供っぽい逃走劇だった。その間、したことといえば、少女と寝ていたことだけだ。
いまでも、股間は屹立している。
電車に乗りつづけているのも、どこかでふたりきりになってしまったら、まゆを抱いてしまいそうだったからだ。
現に、朝、田舎の駅を発車した、東京行きの列車のボックス席で、おれはまゆを抱いていた。初老の車掌がやってきたときには、ほとんど挿入しかけていた。
とっさに寝たふりをしたので、車掌は気づかなかったようだが、おれはさとった。
――おれは狂いはじめている。
のべつまくなしにまゆを抱こうとしている。唇を吸おうとしている。
そして、まゆも、それがあたりまえだと思いはじめているようだ。抗うことをしない。求めれば、どこででも膝をゆるめる。そして、愛撫には声をはなつ。
――まゆも狂いはじめている、のかもしれない。
いや、それはおれがまゆを染めあげてしまったからだ。
毒に、浸してしまったからだ。
山の手線の風景は、なぜだかとてもなつかしくて、古い記憶を刺激した。
むかし、膝立ちでシートにあがり、窓の外の風景を厭かずにながめた。
それが、まゆとほとんど同じ年頃のことだったように思う。
あの頃の心は柔らかくて、痛みにとても敏感で、そして、可能性に満ちていた。
子供というのはそうだ。無垢ではない。そして傷にまみれている。それでも、かさぶたの下にはつねに新鮮な皮膚がうまれ、そして次の階梯をあがるために息せききっている。
知ることで失っていくものの意味をまだ知らない、がゆえに多くの価値をたもっている。
おれはまゆを見た。
疲れていた。荒淫と不自然な生活が、まゆから子供らしさを奪っていた。重い陰りがまぶたの下に溜まっている。細い身体がさらに細く、頼りなげに見える。
衣服のほつれ、髪の汚れ、結局買いそびれた靴のかわりのスリッパは、泥にまみれて固まっている。
なんということだ。
おれは、この子に哀しみを近づけさせないと誓ったのではなかったのか。
すうすうと寝息をたてている無力な少女に、おれは、なにを与えてやったというのか。
おれは……
想いを反芻するとともに、涙があふれた。
向い側の老人が片目をあけた。白内障が始まっている瞳だった。
おれを見て、表情もかえず、また目をとじた。
眠ったままのまゆをおぶって、おれは電車を降りた。
まゆの眠りは深いようだ。
このまま目覚めなければいい、と思った。
踏切を渡りながら、ふと、電車にとびこむ自分の姿が脳裏にうかんだ。
それもいいのかもしれない。
まゆと肉塊となってまじりあう。
それもひとつの回答かもしれない。
愚かな答えだが、もともと問い自体が愚かなのだ。
――むろん、まゆを殺すことなど、できるはずがない。
おれひとりを殺すことについては考えることを避けた。思いのほかあっさりと結論が出そうな気がした。
一歩一歩、前に進むたびに心臓がちいさくなっていく。
自分の身体も小さくなる。
視野もせまくなる。
大きく息をはく。その息のぶん、存在を許されているという感じがする。
まゆが重い。こんな小柄な少女が重く感じる。背骨がきしむ、その感覚は、しかし甘美だった。いっそ、まゆの全身が剃刀でできていたならば、と思った。おれを切り刻んで、罪の何万分の一でも償わせてほしかった。
はじめて出逢ったとき――こんな日がくるとは想像もしなかった。
小学校にあがるかどうかという小さな女の子。日本語がまだわからない、お人形のようなおしゃまさん。
そして、再会したのは、まだほんの一週間前のことだ。
なんという日々だったろう。
たしかに言えることは、この数日間ほど、おれは生きたことはなかった。これまでの二十数年かの人生は、この一週間のための準備期間でしかなかったようにさえ思える。
まゆを愛したこと。そしてまゆに愛されたこと。
それだけが、おれが生きた証しだ。
――気がついたとき。
旅は終わっていた。
「もどったね、沢くん」
そこはおれのアパートの前で、目の前には天野貴之がいた。雪江もそばにいる。二人とも、身なりからして一般人ではないというオーラを放っている。
道端に停まっているのは黒塗りのリムジンだ。自家用ではないだろう。たぶん、航空会社がVIP用に準備している車両なのだ。
その近くに、やはり黒塗りのベンツが停まっている。傍らにいるのは神村弁護士だ。さすがに苦虫を噛みつぶしたような表情をうかべている。出しぬかれたくやしさか、それとも……
そんなことはどうでもよかった。おれは疲れていたのだ。
「ギリギリのところだったよ。われわれが空港に向かわなければならないタイムリミットが迫っていた。きみが戻らなければ、神村弁護士に処理を任せて行くしかなかったところだ。むろん、警察沙汰になっていたろうね」
「そうですか……」
なにも感じない心で、おれは答えた。
「まゆを渡してくれるね? この子はまだ幼い。愛だの恋だのという前に、子供らしい無邪気な生活を送る権利がある。おとなの欲望で、子供の心を歪めてはならん。ちがうかね?」
貴之の言葉は否定のしようがない。その通りなのだ。
「きみがしたことは普通なら許されないことだ。犯罪だ。だが、まゆを想ってのことだと信じる。だからこそ、いまはまゆの幸福だけを考えてほしい」
貴之の言葉に雪江がうなずく。
「そうよ、まゆはわたしたちが実の娘と同じに大切に育てるわ。いつか、おとなになったまゆのところに会いにいらっしゃいな。ね、だから……」
雪江が手をさしのべる。まゆを受け取ろうとしている。
おれはおぶっていたまゆを起こさないように気をつけながら――