ええ、ほんとうに間に合ってよかったと思います。
あの子――まゆをあのままにしておけばどうなっていたことか。
わたくしと夫・貴之はアメリカでともに事業を興した七瀬さんご夫妻と、家族ぐるみのおつきあいをしていました。
わたくしたち夫婦には子供がいないので、まゆのことはほんとうに可愛くてしかたがありませんでした。
七瀬さんがアメリカでの事業を貴之に託し、日本へ帰国することになったとき、わたくしはまゆに会えなくなることがいちばんつらかったのです。
まゆもわたくしたちになついていました。
何度か日本を訪れましたが、そのたびに「アメリカのママとパパ」と呼んで慕ってくれたものです。
七瀬さんご夫妻が不慮の事故で亡くなり、まゆが天涯孤独になったと知ったとき、わたくしは矢も盾もたまらなくなりました。まゆをこの胸に抱きしめてあげたい。その涙をぬぐってあげたい。そして、実の親以上に愛してあげたい、と。
夫は仕事のために先に日本に着いていました。そこに合流するかたちで、わたくしも帰国いたしました。
さっそく、七瀬さんの顧問弁護士であった神村弁護士に連絡をとりました。むろん、まゆを引き取るためです。
ですが、弁護士の態度は煮えきらないものでした。七瀬さんの親戚に預けてある、とか、いまは学校に行っている、とか、どうにも筋のとおらない言い訳ばかりをするのです。
七瀬さんの親戚に預けているというのはウソでした。たしかに親戚の方はいらっしゃるのですが、まだ独身の若い男性で、ちいさな子供の面倒がみられるような人ではなかったのです。
そのかたから、まゆのことは弁護士がみることになった、ということを聞きました。
けれども、おかしなことに、弁護士の自宅にはまゆはいないのです。自宅には、奥さんと中学生の息子さん、小学生の娘さんがいるだけなのです。むろん、この娘さんがまゆである、などということはありえません。
夫は行動力のある人ですから、どんなことでもすぐに調べてしまいます。弁護士の別宅をすぐに見つけ出してしまいました。**の近く、一等地の高級マンションでした。
消去法として、そこにまゆがいると思われました。
わたくしも、夫に負けず行動力があるほうです。子供を産まなかったせいか、部屋にじっとこもっているというのは耐えられないのです。外見には似合わぬおてんばものだと、昔からよく言われていました。
ですから、弁護士と話をつけに行った夫とはべつに、まゆを迎えに行きました。
すったもんだはありましたが、夫の名前の影響力のおかげか、あるいは高額の謝礼がきいたのか、メイドを説きふせて、部屋にあがることに成功しました。まゆは寝室にいるという話です。
下品な調度があちこちに並んでいます。神村弁護士というひとの、品性の下劣さが伝わってくるようです。こんな場所に、わたくしのまゆが閉じこめられていたかと思うと、気がへんになりそうでした。
寝室のキングサイズのベッドの上に、まゆはおりました。白いワンピースを着て、眠っているようでした。
ただ、奇妙なことに、ベッドのシーツに赤いしみが見えるのです。あわてて駆けよりました。
ああ。
ベッドの上には刃がとびだしたままの、カッターナイフがありました。
赤いしみは血でした。傷が、まゆの手首のあたりに何か所か見えました。あとから入ってきたメイドが、ひい、と叫びました。救急車、救急車、とわめきはじめたメイドをわたくしは叱りつけました。
「よくごらんなさい、もう血はとまっているわ。そんなことより、まゆの着替えをかばんにでも詰めていなさい。身の回りのものだけでいいわ」
わたしはまゆの寝顔をじっと見つめました。目許に、涙のあとがこびりついていました。よほど悲しい目にあったのにちがいない、と思いました。衝動的にカッターで手首を切ってしまったのでしょうが、皮膚を裂いたくらいでは、むろん血はすぐに止まってしまったことでしょう。痛かったでしょうが、泣き疲れて、眠りこんでしまう程度の傷だったのです。
わたくしは、まゆの頬をそっと撫でました。なんとも柔らかくて、頼りない感触でした。長いまつげが動いて、まゆのまぶたが開きます。
しばらく、夢のつづきをみているかのようでした。
わたくしの顔をぼうぜんと見あげていました。
「……ママ?」
母親の夢でもみていたのでしょうか。わたくしはまゆの母親よりは多少は……いえ、かなり年上ではありましたけれど。
「もうだいじょうぶよ、まゆ。アメリカのママが来たからね」
わたくしが声をかけると、ようやくまゆもこれが現実であると理解したようです。
声もださずにわたくしにしがみつきました。
泣いている、というよりもうめいているようでした。わたくしは愛おしさがこみあげてきて、まゆの身体を抱きしめました。身体の一部分がうずくようです。母親になれなかったわたくしでも、こんな気持ちになるなんて。
「まゆ、ママといっしょにアメリカに行こうね」
まゆは無言でうなずきました。まゆにとって、この日本ではいい思い出がなかったにちがいありません。
「あの……奥様、支度ができました」
メイドがおずおずと声をかけてきました。まゆのものらしい、ちいさなナップザックに、下着や衣類が詰まっているようです。必要最少限度でよい旨は指示してありました。なぜならば、これからは、まゆはわたくしにとっての最高の着せ替え人形となるからです。いえ、人形などといってはいけませんね。まゆは人間です。愛らしくて、傷つきやすい女の子なのです。でも、わたくしにとって、かわいい服を着せる対象がほしかったのも事実なのです。
「さあ、まゆ、行きましょう」
わたくしはまゆの手を取って、立たせました。
「あの……おじさまは……?」
一瞬、わたくしの夫のことをさしているのかと思いました。でも、まゆの次の言葉で、そうではないことがわかりました。
「おじさまにことわりなく部屋を出たらしかられるの」
神村弁護士の脂ぎった顔を思い浮かべ、わたくしは強い怒りを感じました。なんということ。あの弁護士はまゆにいったいどんな体罰を加え、その心を支配しようとしたのでしょう。
「いいのよ。あんな弁護士よりも、アメリカのパパのほうがえらいのよ。もうそんなことは気にしなくてもいいのよ」
「……ほんと?」
まゆが上目づかいで訊いてきます。
わたくしは、まゆを抱きしめて頬ずりしたいという衝動におそわれ、そして抵抗しませんでした。
「ほんとうよ! もう、悪い魔法使いの魔力はなくなったのだから」
「……ほんとうなのね、アメリカのママ……ママ……」
まゆは力がぬけたようにつぶやいていました。
着替える時間が惜しかったので、ワンピース姿のままのまゆを連れ出しました。メイドは最後までおどおどしていました。弁護士に叱られることばかり気にしているようでした。
車に乗るとき、まゆが顔をしかめました。
「どうしたの?」
まゆは首を横にふりました。でも、顔が赤くて、つらそうです。手で、下腹部を押さえています。
車が走りだしました。まゆは、うっ、とちいさく声をもらしました。
「どこか痛いの?」
やはりまゆは首を横にふります。そして、
「おじさまに……鍵をもらわなくちゃ」
と小声で言いました。
「鍵? なんの鍵?」
「……なんでもないの」
まゆは顔をふせました。
車はすごく揺れます。どうも、指示したルートが工事中で、砂利道であったり、段差があったりするのです。日本の道路は常に工事ばかりしています。行政の貧しさを感じてしまいます。
車が揺れるたびに、まゆはくぐもった声をたてました。
わたくしたちが滞在しているホテルに着くまで、まゆはずっと具合がわるそうでした。
一般論になるが、こういったケースは実際は多いのではないだろうか。
弁護士の立場にある人間が、二重生活をしようと思ったら、それはかんたんにできてしまう。金さえあれば、もうひとつの部屋、もうひとつの家族を持つこともたやすい。法的な部分については、専門だから、なんの問題もない。
政治家やタレントなどとちがって、マスコミにつけ狙われてもいないから、身辺をさほど警戒しなくてもよい。
そして、もうひとつの家庭のなかで、どんなふるまいをしても、それは世間にはわからない。
今回、わたしが神村弁護士の裏の顔をあばき得たのは、そういった意味でいうとツイていたのかもしれない。むろん、経済力やコネクションといったものもあるが、なによりもまゆを想う心の強さのゆえだろう。
自分で言うのもなんだが、わたしは強い意志を持つことでいまの地位を築いた。成功を得るための最高の手段は、あきらめない、ということだ。
求めるべきものは物質的な豊かさだけではない。生活を真に豊かで有意義なものにするためには、家族の愛も必要だ。正直なところ、いままでその部分は完全ではなかった。わたしは妻を愛しているが、さらには愛すべき子供もほしかった。そう、まゆのことだ。
まゆを想う心が弁護士の欺瞞を粉砕したのだ。そう、胸を張って言える。
「親戚の青年が引き取る、というのならともかく、赤の他人のあなたがまゆをどうこうするというのは変じゃないのかね」
「いや、それはですな、その……」
弁護士事務所の専用オフィスで、弁護士はしどろもどろだった。
「わたしがまゆを引き取り、アメリカへ連れていく。もともとまゆはアメリカで生まれ育ったんだ。市民権もあるし、なんの不都合もない。ましてや、わたしがどういう立場の人間か、知っているだろう?」
わたしの視線に射すくめられて、弁護士はちぢみあがった。
「はあ……その……理事をされているそうですな。児童虐待問題を考える団体の……」
「子供への性的虐待の問題はアメリカの方がむしろ深刻だ」
わたしは深くうなずきながら言った。
「たくさんの子供たちが性的な暴力の脅威にさらされている。原因はいろいろある。親の虐待、貧困、人種差別、そして……」
「趣味とか」
わたしは弁護士を睨みつけた。弁護士の首がカメのようにみじかくなる。
「いろいろな趣味嗜好はあるだろう。だが、子供に欲情するというのは異常だ。あってはならないことだ。そういう嗜好を持つ人間はクズなのだ。社会のゴミであり、ウジ虫同然の存在だ」
一気に言い放った。正しいことを口にする快感が全身をかけめぐった。そうなのだ。わたしは正義の執行者なのだ。
「はあ……」
変態性欲を持つ弁護士が、図星をさされて顔をゆがめる。なんとも不細工な男だ。顔もそうだが、身体もブヨブヨとふくらんでいる。節制ということができない人間なのだ。異常な性癖を持つ者は姿形もみにくいのだろうな、とわたしは思った。わたしはその点、ジムに通い、体型を維持している。妻もそうだ。ふたりとも肉体年齢は三十代といってもいいほどだ。わたしたちは、こんなみにくいブタとはちがう人間なのだ。
「わかったかね」
「でっでも、ですね」
「議論をつづける意味があるのかね? 実力行使をしてもよいのだよ」
弁護士はなんとも複雑な表情をうかべた。
何を考えているのか、ブタめが、と思ううちに、珍妙なことが起こった。
弁護士の目に涙がうかんだのだ。
「まゆチャンを連れていかないでくださいっ。わたしは、もう、あの子なしでは……」
なんと。弁護士は部屋の床に土下座をしはじめたではないか。人目のない事務所の一室とはいえ、常軌を逸している。
「お願いいたします、天野さまっ! お願いですっ!」
わたしは、床に這いつくばっている弁護士のぶざまな姿に、当初はあっけにとられていた。それから、ゆっくりとおかしさがこみあげてきた。
と同時に、怒りの感情もわきあがってきた。この男がまゆにしたと推測されることが、ここに来てようやく実像を結んだのだった。地位も名誉もある中年男が土下座をしてまで守ろうとするもの。その異常さ、けがらわしさは、じゅうぶんに想像できた。
だが、その怒りをなんとか鎮め、わたしは弁護士の薄くなった後頭部に声をかけた。
「神村さん。あんた、まゆを養女にできるのかね? ちゃんと手続きをとって、正式に養子にできるのか?」
弁護士の肩がふるえた。できるはずがない。彼には妻と実の子供がいる。
肩が落ちた。あきらめたようだ。わたしは勝ち誇って言葉をつらねた。
「われわれは明日、アメリカへ立つ。いろいろな手続きがあるが、そのことについてはきみに手伝ってもらわなくてはならない。よろしいかね、神村くん」
「はい、天野さま」
弁護士はカーペットに向かって、服従の言葉をはいた。