「おかえり、おにいちゃん、遅かったねえ」
玄関口でまゆがフライパンを持って出迎えた。
フライパンの底には、黒く変形した目玉焼きらしきものがこびりついていた。
「晩ごはん、失敗しちゃった」
てへっ、と舌をだす。
おれは答える言葉をみつけられないまま、靴をぬいだ。
けげんそうにまゆがおれを見ている。
「どうしたの」
おれは答えず、背広を脱ぎ捨て、ワイシャツをちぎりとるようにした。
「ね、晩ごはん食べないの?」
「食ってきた、外で」
ほんとうは食べていない。だが、食欲などまるでない。
「ええー、まゆ、待ってたのにい」
まゆがふくれっつらになる。
「ご飯だって炊いたし、おかずも……目玉焼きは失敗しちゃったけど、支度したんだよ」
「悪かった……食うよ」
「ほんと? よかったあ。ひとりで全部食べなきゃなんないかと思った」
まゆは炊飯器からご飯を茶碗によそいはじめた。
「うひゃあ、ベチャベチャだよう。水、多かったのかなあ」
一人で食事するのはいやだったのだろう。まゆははしゃいでいた。
やわらかすぎるご飯に、ダシなしで作った味噌汁、焦げた目玉焼き、それにふりかけ。
ままごとさながらに、食卓がまゆの手によってしつらえられていく。
「はい、ダンナさま、めしあがれ」
新婚の奥さんでも気取っているのか、まゆは首をかるく傾けてみせた。
味はひどいものだ。だが、いまの気分では、どんなうまいものでも楽しめないだろう。
まゆもわれながら失敗したと思っているのか、「おいしい?」とは聞いてこない。
「お昼ごはんとは全然ちがうなあ……なんでなんだろ……」
「お昼、どうしたって?」
おれは反射的に訊いていた。
「えっ? あのね、今日、まゆ、すごいラッキーだったんだよ」
まゆは屈託なく笑った。
「学校でね、呼び出しがあったの。なんだろうなあ、と思ったら、先生が、お客さんだから午後から早引けしていいよって。そしたら、校門のところに大きな車が止まってて、アメリカのママが迎えにきてくれてたの」
アメリカのママ……天野雪江の喉元をかざっていた真珠のネックレスを思い出す。いやみのない上品な天然パール。だれからも好感を抱かれるだろう初老の婦人。
「すごかったんだよ。ホテルのレストランでごはん食べたの。それから、プレゼントも。ほら、あそこにあるオルゴール。洋服も買ってくれたの。アメリカのママってすごく優しいの。アメリカのパパも途中から一緒だったんだ。すごく楽しかった」
部屋の奥の、まゆの荷物が置いてあるところに、ガラス張りの箱がある。内部には小さな人形が見える。それがオルゴールだろう。きっとおれの収入ではいかんともしがたい高価なものだろう。
「あしたも遊びにきなさいって、言われたの。行ってもいい?」
まゆはあっけらかんと笑っている。
おれの心のどこかが圧し潰された。
「あしたは、遊園地に行くんじゃなかったのか」
「そうだけど、日曜日でもいいんじゃない?」
おれは手にしていた茶碗をテーブルがわりのこたつの天板にたたきつけた。
びっくりしたのか、まゆが少し身を引いた。
「遊園地に行くのはやめだ。あしたもあさっても、アメリカのママのところでも何でも勝手に行け」
「おにいちゃん、どうして怒るの?」
「怒ってなんかいない。おれと遊園地に行ったって、つまらないんだろ? ろくなものも買ってやれないしな。アメリカのママにねだって何でも買ってもらえばいいじゃないか」
おれは無性に腹がたっていた。視界にオルゴールが入った。繊細な造りの品物だ。それを手を取り、ふりあげた。なかの人形が外れて、カラカラと音をたてる。
「やめて、おにいちゃん!」
まゆが金切り声をあげた。
「どうして意地悪するの、おにいちゃんのばか!」
まゆの視線が、声が胸をつらぬいた。
おれはオルゴールをおろし、立ちあがった。上着を手にとる。
「どこ行くの」
「飲んでくる。勝手に寝ていろ」
まゆは止めなかった。その視線を背中に感じた。非難しているにちがいない。
自分が情けなくてどうしようもなかった。
雨が降りはじめていた。おれは傘もささずにアパートを出ていた。
もとよりクラブで飲む金などはない。駅前の安い居酒屋で痛飲した。つまみも頼まず、日本酒を冷やで飲みつづける男に、店の人間も必要以上の接触をしようとはしなかった。
酒に強い体質ではない。たちまち酔いがまわり、目の前が暗くなる。
なんでこんなふうになってしまったんだろう、自問するが、答えはみつからない。
まゆを引きとった。そのことにやましい動機はなかった。困っている女の子を放っておけなかっただけだ。その子に好意を抱いた、こともべつにおかしなことではない。だが、それをおとなの女を愛するのと同じように愛してしまったのがいけなかったのだ。もともと、そういう嗜好がおれにはあったのかもしれない。異常だったのだ。
――このままではまゆは不幸になるだろう。もう近所に噂はひろまっているのだ。あの管理人がベラベラしゃべっているにちがいない。だからこそ弁護士も知っていた。天野夫妻も、おれにまゆを預けてはおけないと決意した。
天野夫妻はおれの職を奪うこともかんたんにできるのだ。もしも彼らの申し出を受けずに、まゆを手放さなかったとしたら、たちまちおれは社会的に抹殺されるだろう。
それに、なによりも痛いのは、まゆ自身、おれよりも天野夫妻との生活を選ぶだろう、と思えることだ。まゆの家庭はもともと裕福だった。まゆにとっては、天野夫妻の世界のほうがずっとなじみやすいのだ。おれとはちがう世界の人間なのだ。
おれはだめだ。なんの価値もない。立場を利用して、少女にいたずらしているただの変態野郎だ。おれは、クズなのだ。
そう思うたびに、酒が薄く感じられる。さらに濃い酒をもとめて焼酎にかえる。それを幾杯も飲み干すが、気持ちが楽になるどころか、ますます苛立ちと自己嫌悪がつのっていく。居酒屋の主人が迷惑そうな顔をして看板だと告げるまで、おれはまずい酒を流しこみつづけた。
店を出たのは午前一時をまわっていた。雨足が強くなっていた。酔ったからだにはちょうどよかった。
歩くたびに方角が狂い、何度もガードレールにぶつかった。酩酊しているな、と自らを嗤った。意識じたいははっきりしているのに、まともに歩くことさえできないのだ。
まゆ、と呼んでみた。
子供だから好きになってしまったのか、それとも、好きになった女が子供だったのか、どっちなのだろう。でも、たとえ後者だったとしても、自分のやっていることが許されるわけではないのだ。
気がついたら、アパートの前に着いていた。どうやって戻ってきたかの記憶はなかった。つんのめって、路上に手をついた。衝きあげるものが喉の奥を灼いた。灼熱感とともに、アルコールを大量にふくんだ胃液がせりあげ、口からほとばしる。水たまりに汚物がまざり、ひろがっていく。
情けなくて、涙がでた。
と、後頭部を叩いていた雨を感じなくなった。
傘がさしかけられていた。
と思う間もなく、背中を小さな手がさすっていた。
「だいじょうぶ、おにいちゃん」
寝巻き姿の少女が傘を片手に、おれの側にしゃがんでいた。
「まゆ、どうして……」
「遅いから心配したんだよ、でも帰ってきてくれてよかった」
うっ、とうめいて、おれはさらに吐いた。背中に感じるまゆの手は冷えきっていた。いったいどれだけの時間、雨のなか待っていたのか。
「ごめんね、おにいちゃん。まゆのわがままのせいだよね。もうわがままは言わないから、許して」
やさしく背中をさすりながら、まゆが言う。ちがう、そうじゃない、とおれはつぶやいた。
おれが悪いんだ、まゆに心配させてしまうおれの弱さがいけないんだ。
「おうちへはいろ」
まゆがおれを助け起こそうとする。ちいさい力でおれを支えようとしている。
おれはまゆを抱きしめた。雨の中で、切なる思いでこの女とひとつになりたいと思った――