第6章

 朝早く、おれとまゆは家を出た。

 怖かったからだ。天野夫妻が迎えの車をよこすかもしれない。

 じゃまされたくなかった。おれは、まゆをだれにも渡すつもりはなかった。

 まゆも、おれの言うことに素直にしたがった。遊園地たのしみだね、とくすぐったそうに笑った。

 ホームでも、周囲の目が気になった。例の弁護士や、天野夫妻が現れるのではないかとびくびくした。電車に乗って、やっと少し安心した。

 遊園地には開場前に着いてしまった。開場まで近くの喫茶店で朝食を取りながら時間をつぶした。おれはひどい二日酔いで食欲はまるでなかったが、まゆは大きなトーストにジャムをつけてむしゃむしゃ食べていた。

 開場と同時になかへ入った。休みのせいか、遊園地への人出はものすごかった。おれたちはたちまち人波にのまれてしまった。

「ジェットコースター!」

 まゆが叫ぶように言う。

「まさか、乗りたいのか?」

「当然! おにいちゃん、乗ろうよお、ねえ!」

 まゆが手を引っ張る。おれは自分の胃袋に相談した。

 だめ。

 胃袋は即答した。

「まゆ、ひとりで乗ってきなさい」

「えー、ひとりじゃやだ」

 けっきょく、つきあわされた。ゆうべ、もうわがままは言わない、と言ったのはうそだったのかと、ちらっと思う。

 まゆは絶叫をあげて楽しんでいた。おれはといえば、口をおさえ、目を白黒させるしかなかった。

「次はねえ、あれにのりたいな」

「はいはい」

「次はこれ!」

「は……はあ」

「こんどはこいつに挑戦だあ!」

「ふあーい」

 まゆの体力はすごかった。おれの体調が万全でも、対抗できなかったろう。

 お昼前にはおれはへばってベンチに横たわっていた。

「だいじょうぶ? ちょっとはしゃぎすぎちゃったかな」

 子供はそういうことを反省するもんじゃないよ、と言ってやりたかったが、正直体力の限界を感じていた。

「ねえ、写真とろうよ、おにいちゃん。それなら平気でしょ」

 まゆは、ストリートに屋台を出しているピエロを指差した。どうやら客の写真を撮っては売っているらしい。

「思い出に、ね、写真とろ」

 思い出か。おれはまゆの細い肩を見た。まゆも悟っているのかもしれない。遺しておかなければ消え去ってしまうものがあることを。たとえば、だれかを好きになった強い気持ちさえ、時間とともに薄れてしまうことを。

 まゆがおれの手をとる。おもわず強く握りかえす。

 まゆが振りかえって微笑む。

「だいじょうぶだよ、おにいちゃん。だいじょうぶだから」

 そう繰り返す。なにがだいじょうぶなのだろう。それを聞き返すことにおびえさえ感じている自分に気づき、はずかしくなる。そうだ。まゆと一緒にもっと楽しもう。いまはだれに気兼ねすることはないのだ。

 ふたりで写真を撮った。腕を組んで、まるで恋人同士のように。ポラロイド写真を手にまゆは笑った。

「たからものができたよ。これ、まゆのたからもの」

 おれも笑った。たからものはおまえだよ、まゆ。

 時間の流れかたがどうかしているのだろう。あっと言うまに日が西に傾いてしまった。

 遊びつかれたのか、まゆの眼はとろんとしている。

 駅にむかう人の流れのなかで、おれは思った。

 このまま部屋に戻り、明日を待つのか。天野夫妻のもとにまゆを渡すのか。

 それに耐えられるのか。

 ――むりだ。

 そんなことはできない。

 まゆを、どうして手放せようか。

 おれは、遊園地に隣接している高層ホテルの建物を見上げた。かなりの出費にはなるが、あの部屋に帰らないためにはそれは必要な費用だった。

 飛び込みだが、ツインの部屋がとれた。予算からいって、そのへんが精一杯のところだった。スイートだと、へたをすると住んでいる部屋のひと月の家賃なみだ。

 宿泊カードには兄妹であるように記入した。

 部屋は三十七階にあった。まだ新しいホテルだから、内装もきれいだ。

 お泊まりだ、とまゆは喜んでいた。ベッドのスプリングの感触を確かめ、それから窓際へすっとんでいく。

「すごいながめ!」

 窓ガラスに顔をつけ、宵闇に包まれていく街を飽きずに見ている。港が夜とともにライトアップされ、幻想的な景観だった。

「でも、こんなぜいたくして、いいの?」

「子供がそんなこと気にしないの」

 おれは虚勢を張って言った。

「さあ、メシだ。今晩は張り込むぞ」

 レストランは最上階にあった。窓際に席を用意してもらい、イタリア料理のコースを取った。さすがにもう二日酔いの影響も消えており、おれはワインを口にした。

「飲みすぎちゃだめだよ」

 と、まゆに釘をさされてしまったが。

「あのね、これはこうやって食べるんだよ」

 慣れないテーブルマナーについては、まゆに教えを乞う始末で、面目まるつぶれではあったが、料理は美味く、眺めも最高だった。

「なんかね、ドラマみたいだね」

「そうか?」

「うん。なんかうれしい。ドキドキする」

 まゆは軽く頬を染めて笑った。

 食事がおわり、部屋にもどるためにエレベータに乗った。

 箱のなかはふたりきりで、なぜだか会話がとだえた。

 おれも、話の接ぎ穂がみつけられなかった。まゆも、さっきまでのはしゃぎぶりが嘘のようにだまりこくっている。

 けっきょく、部屋まで無言だった。

 部屋にもどっても、うまく会話はまわらなかった。

 空気がぎくしゃくしている。というか、たがいを意識しているのだ。

 いままでとはちがう。

 アパートの部屋でふたりきりになるのとは質的にちがっている。

 窓の外は夜景。しゃれた調度に、やわらかな間接照明。

 しずまりかえった部屋には、茶の間のテレビのざわめきもない。

 おたがいの鼓動さえ聞こえそうだ。

「あのね、おにいちゃん、先にお風呂はいって」

「……ああ」

 おれは動揺を隠しながら、バスルームに向かった。

 からだを洗いながら、自問する。

 このまま、おれはまゆを抱いてしまうのだろうか。

 許されるのか。

 ――わかりきっている。許されるはずがない。

 偽ることはできる。おとならしくふるまい、まゆを子供としてあつかうことは。

 だが、それでいいのか。おれは、それでまゆを愛していると言えるのか。

 なぜ、惚れた女が成人していないからといって、愛の質をかえなければならないのか。

 嘘をつきつづけなければならないのか。

 まゆが拒むならばしかたがない。だが、まゆがもしもそれを受け入れるなら……

 答えがみつからないままおれはバスルームから出た。まゆはベッドに腰掛けていた。

 バスローブ姿のおれを見ると、顔をふせた。

「あいたよ」

「うん」

 まゆはそそくさと立ちあがり、バスルームに消えた。

 衣擦れの、音がする。

 まゆが裸になっている。

 おれはどうしようもなく血がざわめくのを感じていた。

 まゆが浴室で身体を洗っている姿を想像した。

 なにもない胸を指でこすり、そして、股間に指をのばす。

 もしかしたら、という予感に胸をふるわせ、そこを何度も念入りに洗う。

 おもわず、自分のものをしごきたててしまっていた。なにを愚かな、と思いつつも、先走りの粘液が先端を濡らしている。

 間がもたず、冷蔵庫をあけて、ビールを取り出した。不経済だとはわかっているが、どうしようもなかった。飲みながら、夜景を見ていた。

 いま、ほかの部屋でも、こうして相手を待っている男がいるのだろうな、と思うとおかしくなった。

 なんの憂いもなく恋人を抱ける男がうらやましかった。おれは、これから罪を犯すのだ。たぶん、償いようのない罪を。

 背後でドアが開く音がして、窓にバスルームから漏れる光が反射した。

 ふりかえるとまゆがいた。生まれたままの姿だった。

つづく


MENU

INDEX