第5章

「おにいちゃん、途中までいっしょにいこ!」

 まゆがおれの手を引いて、勢いよく玄関を飛び出す。

 おれはまゆの勢いに負けて、苦笑した。寝不足のせいだろうか。ゆうべ、ぐっすりと眠りこんだまゆに抱きつかれたまま、まんじりともできなかったのだ。自分を抑えるのに苦労した。

「あら、まあ、おそろいなのね」

 ドアの鍵を閉めているところに、大仰な声がかぶさった。朝にはあまり聞きたくない声質だ。

 管理人のおばさんだ。朝だというのにぶあつく化粧している。

「あ、どうも」

 頭をさげるおれ。まゆは例によっておれの陰にかくれるようにしている。

 管理人のおばさんがおれの顔を見つめている。唇の端に浮かんでいるのは、微妙な笑みだろうか。

「ゆうべは遅くまで遊んでいたのね。子供の声は響くから」

「え」

「ここ間取りはぜんぶ一緒だから。夜とか、特に声が響くし」

 あきらかに笑った。と同時に、その目に侮蔑の色がひらめいたようにも思えた。

「……急ぎますんで、それじゃ」

 おれは顔をふせ、まゆの手を引いて歩き出した。

 管理人のおばさんの脇をすりぬける。

「このへん、変質者が出るらしいのよ。まゆちゃんも気をつけたほうがいいわよ」

 背筋に冷たいものが走り、一瞬足がとまりかける。

「変態って、ふだんはまともそうに見えるから厄介なのよね」

 だれに言うともなく、管理人が言う。おれはふたたび頭をさげ、そして歩く速度をはやめた。

 ――たあいのない遊びのはずだった。だが、たしかにまゆは嬌声をあげていた。それが下にもれたということはありえる。安普請のアパートだ。

 もともと、管理人が上の部屋――おれの部屋――に聞き耳をたてていたとすればどうだ。悟られてしまったとしても不思議はない。

「どうしたの、おにいちゃん」

 まゆが心配そうな声で訊く。小走りになっている。おれのペースについてくるためにはそうならざるをえないのだ。

 ようやくそのことに気づいて、おれは歩くペースを落とした。

「なんでもない。平気だよ」

「あのおばさん、へんなんだよ」

 まゆが唇をとがらせる。

「学校から帰ってきたら、部屋に来て、あがろうとするんだもん。おにいちゃんのこと、いろいろ聞くし」

「なに、訊かれたんだ?」

「おふろに一緒に入るのか、とか」

「……答えたのか」

「うん。いけなかった?」

 まゆは無邪気におれを見上げる。そうなのだ。まゆに罪悪感はないのだ。だが、おとなの考えはちがう。テレビのニュースでも少女に対する性犯罪の事例はセンセーショナルに取りあげられる。少女とお風呂に入る独身男、というシチュエーションはインモラルなものを匂わせるのだ。

 マークされていたのだ、と思わざるをえない。あの管理人のことだ。噂はあっという間に広まるだろう。

 会社にいても、あまり仕事に集中できなかった。

 管理人が広めるであろう噂についても頭が痛かったが、それよりも明日のことが気になっていた。

 遊園地へまゆと遊びに行く件だ。いろいろと計画が頭のなかにひろがる。近所を離れてしまえば、まゆとおれが連れ立って歩いていてもそう違和感はないだろう。よもや親子とは思われまいが、ちょっと年のはなれたきょうだいか、あるいは叔父と姪、といった感じにはなるのではないか。

「おい、なにボーッとしてるんだ。部長がよんでるぜ」

 同僚に呼びかけられてやっと我にかえった。あわてて席を立ち、部長のところへ向かう。

 部長は、おれの顔を座ったまま見あげている。やや不審そうな表情だ。

「うちの会社のオーナーがアメリカに住んでいることは知っているな」

「はあ」

 この会社の会長がアメリカ在住の日本人であることはおれも知っていた。もともと、おれの父親とも知り合いだったらしい。当時健在だった父親の口利きがあってこの会社に入社したのだ。

「そのオーナー夫妻がおまえのことをいろいろ訊いていたぞ。仕事ぶりとか、ふだんの素行とかをな。なにかやったのか?」

 おれは首を横にふった。オーナー夫妻といったって、会ったこともないのだ。父親が知り合いだったとはいえ、おれとは直接の関係はない。

「まあ、適当に答えておいたが、気をつけろよ。この不況で、うちも人減らしを迫られているからな」

 ぞっとしない話だ。とくに技能があるわけでもないおれが会社をクビになったら、あっという間に食うにも困ってしまう。オーナーに目をつけられる理由などないはずだが、と頭をひねりながら席にもどると、机の上にメモがあった。

 同僚の乱雑な文字で、「コールバック乞う、神村弁護士事務所」とある。ちょっと考え込み、それから思い出した。まゆを引き取る時に訪ねた弁護士事務所だ。なにかあったのか、と思い、さっそく電話する。

『ああ、ごぶさたしてます。まゆチャンとの生活はいかがですかな』

 弁護士の声はあいかわらずどことなく粘液質だった。

「問題はないと思います。学校にもなじんでいるようだし」

『そうですか。いやはや、あなたのような若い方に、あの年頃の女の子を引き取っていただいて、危ぶんでいた部分もあったんですが、そうですか』

 なにがいいたい? おれはちょっといらいらした。

「で、ご用件は?」

『それですな。実は、まゆチャンの件で、あなたとお話ししたいという方がいらっしゃいましてな。ぜひいまからお時間を作っていただけないかな、と思いまして』

「今からですか? でも、まだ仕事中ですし……」

 おれは困惑した声をだした。どちらかというと、この弁護士が持ってくる話には応対したくなかった。どことなく、不吉な予感がする。

『その点は大丈夫です。いま、その方からあなたの上司に連絡が行っているところですから』

 その言葉に顔をあげると、部長が背筋をのばして電話を受けている。そのしゃちほこばった姿勢は、おれの不安感を増幅させた。部長と目があうと、口をぱくぱくさせながら、行け、とあごをしゃくった。おれは観念した。

「……わかりました。どこに行けばいいんですか?」

 相手が指定したのは、銀座の一流ホテルのラウンジだった。

 客の大半は外国人だった。あちこちで英語の会話がおこなわれている。おれは場違いなところへ来たことを自覚しながら、ぶあついカーペットがもたらす違和感を靴の裏に感じていた。

「ああ、こっちですよ」

 肥った弁護士がおれの顔をみとめて、手を振った。

 おれはほっとして、その方角へ足を向けた。いけすかないやつでも、外人のなかに囲まれていると日本人には親近感を持ってしまう。小市民だと自分でも思う。

 弁護士と向かい合っているのも、やはり日本人だった。五十がらみの夫婦らしい。夫のほうは痩せがたで、髪に白いものがずいぶん混ざっている。知性を感じさせる顔だちだ。妻らしい女性は、品がよく、目許の笑いじわがやさしげだ。若いころはそうとうな美人だったろうと思わせる。特に派手ではないのだが、身につけているもののひとつひとつの趣味がよく、妥協がない感じだ。たぶん、ワンアイテムの値段だけでおれの月収を超えてしまうにちがいない。

「お呼びだてしてすみませんな。こちらは天野夫妻、あなたの父君ともお知り合いだったようですな。そして、同時にまゆチャンのご両親とも親しくされていたのです」

 弁護士の紹介にあわせ、夫妻は立ちあがり、ゆるやかに会釈した。尊大さはない。だが、それだけにおれは圧倒される思いだった。おれは名刺をだしかけて、その無意味さに気づき、やめた。

「営業第三部に所属しています、沢です」

「仕事ぶりは中本くんから聞いたよ。若手のホープだそうだね」

 男性の方が言った。天野貴之、おれが勤める会社のオーナーだ。そして、その妻の雪江。

「まあまあ、立ち話もなんですから。ああ、コーヒー追加をたのむよ、きみい」

 弁護士が楽しそうにその場をしきり、飲み物を注文する。

「もうわかっているとは思うが、話というのは、会社におけるきみの仕事ぶりについてではない」

 貴之が口を切った。アメリカ生活が長いせいか、わずかにイントネーションに不自然さがある。

「まゆの、ことなの」

 雪江が口をはさむ。目には真剣な光がある。

「わたしたちは、まゆの両親とアメリカで共同のビジネスをしていてね。まゆの父親、七瀬はわたしにとって得がたいパートナーだったんだよ。そして、家族同士でも親密なつきあいをしていた。特にまゆは、子供のいないわたしたち夫婦にとっては実の娘同様にかわいい存在だったんだ。だが、きみも知っているとおり、数年前に彼ら一家はアメリカから日本へもどった」

「日本にもどることになったのは、まゆの教育を考えてのことだったんです。アメリカよりもずっと教育の質は高いし、治安もいいからといって。だから、まゆと別れるつらさにも耐えられると思ったのに、あんな事故が起こるなんて……」

 雪江の目尻に涙がうかんだ。

 一瞬言葉がとぎれたところに弁護士が割ってはいる。

「ようするに、ですな。こちら、天野さんご夫妻は、まゆチャンを引きとりたい、養子縁組みをしたい、と申されているわけですな。天野さんご夫妻はアメリカでいくつも会社を経営されておられ、豪邸をかまえていらっしゃいます。社会的な地位も高く、ええと……」

「そんなことは問題ではない。重要なのはまゆにとって望ましいのはどういう環境なのか、ということだ。両親の死の思い出があるこの日本でよりも、幼友達もたくさんいるアメリカで暮したほうがずっとよいのだ。それに」

 天野氏が一瞬言いよどむ。すかさず弁護士がねっとりとした口調で言う。

「どうも、ご近所ではあまりよからぬ噂がありましてね。独身男が小学生の女の子と同棲し、一緒に風呂に入ったり、ひとつの布団でじゃれあったりと……まあ噂ですがね」

「そういう話はやめて!」

 雪江が耳を手でふさぐ。

「けがらわしい。まゆはまだほんの子供なのに……」

 おれは言葉を失った。反論をしたいが、それをしとげる勇気がなかった。やましいことはなにもない。でも、社会はそうは思わないたろう。まゆを愛している、この気持ちは、だれに言っても通じないだろう。変態、という一言でかたづけられてしまうに決まっている。

「噂は噂にすぎんよ。わたしたちはそんな話は信じていない。もしも事実だったら……むろん許さんがね」

 貴之がきっぱりと言い放つ。

「実は、きみが会社で仕事をしているあいだにまゆには一度会っているのだよ。きみに会う前に、まゆの口からきみのことを聞いておきたかったし、われわれと一緒に来るつもりがあるかも確認したかったからね」

 それは、ちょっとショックだった。まゆは、どう反応したのだろう。

「まゆは大きくなっていたわ。ほんとうに見違えるくらいに。でも、わたしたちのことはちゃんと覚えてくれていた。アメリカのママ、と呼んでくれたわ」

 雪江はハンカチで目許をぬぐった。

「で……まゆは、なんと答えたんですか?」

 おれはようやく言った。声がかすれるのがわかった。

「それは、まゆ本人から聞くといい」

 貴之が言った。

「いずれにせよ、わたしたちは来週月曜までしか日本に滞在できない。その時にはまゆも連れて行くつもりだ。これまでまゆを預かってくれていたことに対するお礼はするつもりだよ。会社における仕事、今後もがんばってくれたまえ。きみは、ホープなのだからな」

 どうやら、会談は終わったらしい。天野夫妻が身仕度を始めている。弁護士がおれの肩をなれなれしくたたく。

「まあ、気持ちはわからんでもないがね。かわいい子だからね、まゆチャンは……ふふ」

 おれは力なくうなだれていた。

 つづく


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