第3章

 

「行ってきまーす」

 まゆが学校へ出かけてゆく。転校初日だ。もともと通っていた学校は学費が高くつきすぎるし、遠い。だから転校することになったのだ。まゆは、両親を失ったのみならず、友達とも別れなければならなくなったわけだ。

 あれから風呂はさすがに別々にした。まゆも、入浴の心地よさを思い出したらしく、一人でも平気になった。おれはほっとした。いくら子供だからといって、女の子と裸の肌を触れ合わせるのは、肉体的にも精神的にもあぶない。

 極力まゆとの会話の時間をもつようにした。たいていはおれが一方的にしゃべった。小さな女の子の好む話題なんかわからないから、野球の話やテレビの話をした。

 まゆも笑顔を見せてくれた。あの、写真のなかの屈託のない笑みとはちがうが、白い歯を見せてくれることが多くなった。

 写真といえば、写真立てをあれから買った。ホームセンターで買った安いものだが、まゆはぅれしそうに写真を飾り、宝物のように扱った。四畳半の自分の部屋の、カラーボックスの上に置いて、時間があるとそれを見つめていた。そんな時のまゆの横顔には声をかけづらかった。

 それでも、おれとまゆの生活はすこしずつ落ち着きはじめていた

 おれたちは、たがいの間合いをはかりながら、ちょっとずつ距離を埋めていった。

 そして、ようやくまゆの復学の日を迎えたのだ。

 

 それにしても、子供ひとり養うとはなんとたいへんなことか。転校やその他に必要とした金額はかなりのもので、乏しい預金を切り崩さねばならなかった。これから、もっと、もっと必要になるだろう。

「がんばって稼がなくちゃな」

 おれは声に出して言った。めずらしく、仕事への熱意がわき起こってくるのを感じた。

 身仕度をして、出勤する。

 おれの勤務先は某大手商社の傘下にある輸入雑貨を扱う会社だ。思い起こせば、七瀬さん――まゆの父親に保証人になってもらって入った会社だ。ほとんど行き来がなかったわりに、要所でお世話になっていたんだと痛感する。

 張り切って机についたものの、突然仕事ができるようになるわけもなく、まあ、いつも通りのおれなのであった。

 とはいえ、今まではダラダラ残業したり、職場の連中と飲みに行ったりして、家には寝に帰るだけだったのが、今日は時間がやけに気になった。午後四時くらいになると、自分でもソワソワしているのがわかった。

 学校はもう終わっているはずだ。うちで待っているだろうか。それともどこかへ遊びに行っているのだろうか。

 新しい学校では友達ができただろうか。泣かされて帰ってきてはいまいか。

 ――世の親たちの、なんと気がもめることだろう。今まではこんなこと想像もしていなかった。

 だが、ほんとうに気になってしょうがないのだ。

 定時になると、おれは半ば駆け出すようにして退社した。残業する同僚たちの視線が背中に刺さるが、そんなことどうでもいい。

 帰宅までの半時間がとても長く感じられた。

 アパートに帰りつき、部屋のドアを開けた。

 暗い。

「ただいま」

 奥にいるのかもしれないと思って声をかけてみる。

 だが、返事はない。

 まゆの部屋もからっぽだった。

 まだ帰っていないのだ。いや、あるいは出かけたのか。

 ――ふと気づく。

 ガラスの写真立ての向こうが透けている。まゆと両親の写真がない。

 そして、勉強机がわりのテーブルの上に白い封筒が置いてあった。

 いやな予感にとらわれて、おれは凝固した。

『おにいちゃんへ』

 おさない感じのまゆの字だ。

 震える手で封筒から便箋を取り出す。

 擬人化された子猫のキャラクターが印刷されたかわいい便箋に、まゆの言葉があふれていた。

『おにいちゃんへ

 やさしくしてくれてありがとう。

 おにいちゃんといるとき、とてもたのしかった。

 でも、まゆの家族はもうどこにもいません。

 あの時、まゆもおぼれて死んでいればよかった。そうしたら、天国でおとうさんとおかあさんといっしょにいられたのに。

 まゆだけが、わらって、たのしくする、なんてできない。

 ごめんね、おにいちゃん。おにいちゃんのこと、すごく好き。こどものころからずっと好き。おにいちゃんはおぼえていないかもしれないけど、ずっとむかし、遊んでくれた時のこと、わすれていません。だから、ひきとってもらえて、すごくうれしかった。

 でも、いまにぜったいじゃまになると思う。まゆがいたら、おにいちゃんはふこうになると思います。

 だから、今からおとうさんとおかあさんを追いかけてみます。追いつけるかどうかわからないけれども、やってみます。

 さようなら』

「ふざけるな!」

 おれは怒鳴っていた。手紙を引き裂きかけた。その手を止めて、自分の顔を拳骨で殴った。

「ばかやろう! なんで気づいてやれなかったんだ!」

 まゆは癒されてなどいなかったのだ。心は事故後のショックを引きずったまま、壊れ続けていたのだ。

 両親を亡くした悲しみ、自分だけ生き残った罪悪感、環境の激変――なにひとつ、なにひとつおれは助けてやれなかった。自分ひとり「うまくやっている」と悦に入っていただけだ。

 うめきをあげながら、おれは部屋のなかをぐるぐる回った。

 警察――だが、どうやって見つけてもらえばいい?

 あの弁護士――問題外だ。

 まゆ、まゆ、まゆ、どこに行った?

 ヒントはないのか? まゆ、おれにおまえを助けるチャンスをくれないのか?

 おれはもう一度文面を読みかえした。

 むかし、一緒に遊んだ――っけ。どこだったっけ。

 覚えていない。

 いや。

 忘れていただけだ。

 たしかに、いつだったか、まゆと――幼かったまゆと一緒に過ごしたことがある。

 そうか。

 おれは玄関へ走った。

 通りに出て、タクシーを拾った。

「多摩川べり」

 はあ?というような表情を運転手はうかべた。

「多摩川べりったって広いですよ」

「道順はおれが言う。とにかく、急いでくれ!」

 昔のことだ。おれがまだ学生だった頃。

 親戚が家を新築したから手伝いに行け、という連絡が実家から来た。食事が出るということで張り切って行った。当時は金がなくてまともなものを食べていなかったからだ。

 親戚といっても、それが初対面だった。先方は、海外生活が長かったせいか、そういったつきあいがうまくなかったようだ。

 家族は、やや年がはなれているなと感じさせる夫婦と、まだ小さい女の子だった。夫が穏和な感じの中年男性であったのにくらべ、奥さんが若々しく、すごい美人なのにびっくりした記憶がある。女の子は小学校にあがるかあがらないかという年ごろだった。

 驚いたことに、女の子は日本語がわからないようだった。

「この子はまだこっちの言葉ではコミュニケートできないんだよ。本を読んだりはするんだけどね。なにしろこんあふうだから」

 母親の影にばかり隠れている女の子のことを、父親が説明した。

「こっちでなかなか友達ができなくてね。もうすぐ小学校にあがる予定なんだが、ちょっと心配してるんだよ」

 引っ越しについては、専門の業者が来ていたので、ほとんどすることがなかった。けっきょく、女の子の相手をひがな一日していた。家のすぐ近くが多摩川で、川面に石を投げたり、ボールで遊んだり、いろいろなものの名前を教えてあげたりして過ごした。

「あれは、い・ぬ」

「INU?」

「いにゅ、じゃなくて、い・ぬ」

「I・NU……?」

「そう、そんな感じ。で、あれはねえ……」

 女の子はずいぶんおれに打ち解けたようで、引っ越しが一段落して帰ることになった時には、泣かれてしまった。

「Stay here……please」

 父親がそんな女の子の頭を撫でながら苦笑する。

「娘はすっかりきみを気に入ったようだね。無理もない。こっちへ来てから、わたしたちもまゆの相手をロクにしてやれなかったし、まゆにはずっと友達がいなかったのだから」

「そうだったんですか……でも、また来ますよ。親戚なんだし、せっかく近くにいるんだから……」

 そう言って別れたのだが、ほどなく学校が忙しくなり、就職活動なども始まるうちに、けっきょく訪ねそこねた。その後、おれの両親がなくなり、接点が完全に切れた。

 今にして思えば、あの時の女の子がまゆだったのだ。

 どうしてすぐに思い出さなかったのか。

 あまりにも変貌していたから、ということもある。あの時のまゆはむしろ赤ん坊のように可愛いだけで、少女期の美しさとは無縁だった。それに――いまのまゆはあのころと違って、笑わない。

 そうか――おれを引き留めた時のまゆの顔――その表情だけは今と通じる。

 まゆは笑わないどころか――泣き続けていたのだ。

 そのまゆが両親との記憶に引きずられるとすれば、まず、いったん自宅に戻るのが自然だ。

 悩む必要もない、自明のことだ。なぜ、それを最初に思いつかないのか。

 タクシーが多摩川にぶちあたった。

 記憶をたぐる。あの時は歩きだった。もう随分前のことで景色も変わっている。

 だが。

「そこを右に――」

 おれは必死に記憶をたぐっていった。

 その家はそこにあった。

 豪邸というより瀟洒な一戸建て。住んでいる家族の睦まじさと静謐さを感じさせる趣味のよい建物だった。

 だが、なにかちぐはぐだ。

 ガレージには趣味の悪いベンツが停まっていた。立て掛けられた自転車はゴテゴテとパーツのついた男の子用のものだった。泥のついたサッカーボールが転がり、庭木の枝が折れたままになっていた。

 まるで、美しい城に山賊が住み着いたかのような――

 犬がけたたましく吠え立てた。

 表札をみた。七瀬ではなかった。

 

 おれは多摩川べりを走っていた。

 あの家にはまゆはいない。

 耐えられなかったろう。両親との思い出の場所が他人の生活の跡によって汚された――そんなふうに思ったかもしれない。

 まゆはきっと川へ向かったはずだ。

 おれならそうする。

 ――おれが親を亡くした当時、一定期間の記憶があいまいなままだ。同僚に聞くと、いつも通りだったという答えが帰ってくる。だが、おれは覚えていない。

 ただ、うどんばかり食っていたと言われた。それも覚えていないが、うどんはお袋の好物で親父の得意料理だった。

 七瀬さんはヨットを趣味にしていたくらいだから、水辺が好きだったろう。だから、この場所に家を買い求めたのかもしれない。きっと、休日には親子で川べりを散歩していた――そう、あの写真の背景も川だった。

 いま時間は七時。夏前の太陽はしかし、もはや地平線に没している。残照があるのもあと数分だろう。

 川原が見える道を走る。たまに犬の散歩をしている人にすれちがう。そのたびに、一人でいる女の子を

見なかったか、と聞いてみた。ほとんどが無視して通りすぎてゆく。答えてくれた人も、知らない、というばかりだ。

 都会の空に星が見えるほどの暗さになった。もう遠目からでは見つけられない。おれは川原に降り、走りながら叫んだ。

「まゆ! どこだ!?」

 恥もへったくれもない。何組かのカップルが、奇態な叫びをあげて走るおれを気味悪げに見ている。

 だが、そんなことにかまってはいられない。

「まゆぅ! 返事をしろ!」

 おれはなおも闇の川原を走る。

 息が切れた。最近、体力の減退がはなはだしい。声が出なくなる。くそう。

「まゆ……死ぬな! 死んだりしたら、承知しない……」

 小さな手の感触。

 なんだ、この記憶は。

 ナイテイイヨ……

 たどたどしい言葉。

 この、ふいに立ちのぼってきた記憶はなんなのだおる。

 大きな瞳が涙にうるんでおれを見上げている。

 イッショニイテアゲル――ダカラ

 黒い服を着た少女。前髪が眉にかかるほどの長さで、きれいな声の――すこし舌足らずな発音で。日本語うまくなったじゃないか。友達できたか――意味もなくそんなことを言って――おれは泣きもせず、ただ独りになることを選んで――それからずっと死んだままだった。

 混乱している。だが、思い出していた。

 おれはまゆと二回会っていた。ひどい話だ。ぜんぶ忘れていた。二回目は、そう――三年前。

 ひとりになったおれを、ひとりでいつづけようとしたおれを、此岸に呼びもどしてくれた。

「まゆ……」

 これ以上は走れない。おれは川原に突っ伏した。心臓が跳ねまわっている。耳鳴りがする。自分の心音が、いろいろな音に変化して聞こえる。汽笛の音とか、パチンコの音とか。

『おにいちゃん』

 耳鳴りがまゆの声に化ける。

『おにいちゃん……』

 幻聴はやまない。おれは顔をあげた。

 まゆがいた。半ズボンにだぶだぶTシャツ。子供用の小さなナップザック。細い脚にはスニーカー。裸足でかかとを踏んでいる。脚は太股の上のほうまでずぶ濡れだ。何度か流れのなかへ入ったのだろう。

「だいじょうぶ、おに……」

 みなまで言わさず、おれはまゆを抱きしめた。

 抱きつぶしてもかまわない。そんなふうに思った。いっそ、おれの身体の一部にしてしまいたい。そんなふうにも思った。

「いた……くるしいよ」

「うるさい。これは――おしおきだ」

 自分でも驚いたが、涙声になっている。情けないとも思ったが、しかつめらしい声なんてでてこない。

「……おにいちゃん」

「おれだって独りなんだぞ。おまえしかいないんだ。一緒にいてくれるんじゃなかったのか」

「ごめん……ごめんね……」

 まゆがおれの頭に手をまわした。まるで母親がそうするように、おれを抱きしめかえす。

 おれは気づいていた。

 これは保護者の感情じゃない。

 この世にひとりぼっちずつ。

 ほんのわずかな血の絆を手掛かりに、おれたちは巡り逢った。

 三度目の邂逅――でも、もう離さない。離れることはできない。

 独りには、もうなれない。

つづく


MENU

INDEX