とりあえずまゆを連れて家に戻った。
おれの家は2DKのマンションだから、まゆに使わせる部屋を確保するために、ためこんでいたガラクタ を処分する必要があった。なんとか四畳半の和室をあけ、まゆの部屋とした。六畳間のほうが居間兼おれの寝室というわけだ。
まゆには両親と住んでいた一戸建てがあったのだが、ほかの財産も含め、すでに他人名義になっており、すでに債権者が居座っていた。そちらの処理は弁護士に任せ、最小限の荷物だけ持って出るしかなかった。どうやらまゆの両親はずいぶんと借金があったらしい。
部屋に荷物を運びこんで――といってもボストンバッグひとつという簡素さだが――まゆと向かい合った。
外はもう暗い。蛍光灯の光る輪っかが作り出す薄青い空間を沈黙が支配する。
まゆは両親の死の衝撃、生活の激変、といったことが重なって、笑い顔はおろか、声さえ失くしてしまっていた。
おれとしても、ずっと年下の女の子をどうやってくつろがせればいいのか、わかるはずもない。
「えーっと、まゆ、ちゃん――でいいかな、呼び方」
胸を押さえるようにしながら、まゆは無言でうなずく。虚脱した表情だ。
「うーんと、これからおれと――じゃなくて、お兄さんと暮らすことになるけど、大丈夫かな?」
まゆは首をかしげる。質問の意味がわからなかったようだ。
さもありなん。おれにもわからない。
「たとえば、うちは布団だけど、ベッドじゃないと眠れないとか、枕がかわるとだめだとか」
まゆの視線が宙をさまよったが、答えはなかった。もしかしたら、自分の部屋のことを思い返していたのかもしれない。悲しげで、うつろな表情だ。
「な、なにか必要なものがあったら言ってね。おれ――じゃなくて、お兄さんはお金持ちじゃないけど、まゆちゃんが欲しいものならなんでも――たいていは――買ってあげられると思うから」
「あの……」
まゆが小さな声をだした。初めて声を聞いたような気がする。
「写真……たて……」
胸ポケットから一葉の写真を取り出した。
見るともなしに見た。
まゆがいた。笑っていた。お日様のような笑顔だった。そのまゆの両脇に男女が立っている。落ち着いた雰囲気の男性と、優しげで美しい女性だ。女性のほうはまゆと面差しが似ていて、一目で親子だとわかった。
おれは写真のなかのまゆの表情に魅せられた。なんて愛らしい、ひとを幸福な気持ちにさせる笑顔なんだろう。目の前の無表情な少女が、こんなふうに笑えるのか。
「これだけしか、持ってこれなくて――むき出しだし――」
だから、写真立てか――
「――待ってな」
衝動的におれは立ち上がっていた。
押し入れの襖を開いて、しまいこんでいたがらくたを引っかき回す。
「あった」
昔の写真を雑多に突っ込んだ箱。そのなかに、折り畳んだままの写真たてを発見する。
中学生くらいのおれと両親――見たくなくて箱に突っ込んだ、おれ唯一の家族勢揃いの写真。
まゆがおれの手元を覗きこむ。
「中古だけど我慢してくれな。あしたになったら、写真立てと、それと必要なものを買ってこよう」
写真立てからその古びた一枚を引き抜こうとしたおれの手をまゆがおさえた。
「おにいちゃん、だめ」
え?
まゆの目に涙がたまっていた。
「おにいちゃんのお父さんとお母さんの写真――追い出したらかわいそう」
「ば、ばかだな。どうせしまいこんでたんだ、どうってことないよ」
言いつつおれは思った。おれは、どうして、この写真立てのことを思い出したんだろう。ずっと忘れていたのに。
おれの両親は三年前に交通事故で死んだ。よくある話だ。おれはもう上京していて、就職していた。
驚いたけれど、泣きはしなかった。
訳も分からぬうちに喪主となり、黒い腕章をつけてあいさつしたが、なにも思わなかった。
そのまま東京にもどり、仕事に復帰した。同僚の数人からお悔やみの言葉をもらったが、そんなもんかと思った。香典を何に遣ったのかもおぼえてない。
なのに、鼻の奥がツンとして視界がにじんだ。まゆの手の温かさ、小ささを感じて。
こんなに幼いのに、こんなに弱いのに。
耐えているのか、この子は。
おれは写真立てをもとにもどした。
「まゆ、写真を借りていい?」
その一枚を受け取り、まゆの両親に相対する。
お久しぶりです――言葉に出さずそう言う。
まゆを預かります。おれに、どこまでできるか、わからないけど――
この写真のなかの笑顔をまゆが取り戻せるように、がんばってみます。
約束します。
この子が笑い方を二度と忘れることがないよう、側で支えることを。