「らんま1/2」テレビシリーズ最終エピソードをふりかえる

 「乱馬、ミーツ・マザー」「いつの日か、きっと……」の2部作がテレビアニメ版らんまのラストエピソードとなるのだが、なぜ、この話を見て、最終回として納得できたのかを考えてみた。

 スタッフ・キャストの意気込み、全体的なクオリティの高さというものも無論あるのだが、それ以外の大きな要素として、このシリーズのテーマである「乱馬とあかね」の関係において転機になるエピソードだったからではないか、と思った。

 それはなにか。

 乱馬の母の登場である。

 考えてみれば、この作品において、主要キャラクターたちの母親の描写というものはほとんど登場しない。九能しかり良牙しかり。シャンプーもムースも母親は登場しない。右京にも父親しかいない。五寸釘の母だけは原作に登場しているが、五寸釘とまったく同じ顔をしているというギャグネタ扱いで数コマしか登場しないので、あれほど長期にわたったシリーズで母性の描写はほぼゼロだったと言っていいだろう。

 一方で、濃厚な父親ばかり登場する。早雲、玄馬、校長などだ。

 「らんま1/2」は母親不在の物語だったのだ。それはヒロイン・あかね、主人公・乱馬の心の問題とも合致する。

 あかねは幼くして母親と死別している。母親の優しさ・温かさの記憶は持っているが、もう二度と母に会うことはできない。

 一方、乱馬の場合、母親と過ごした思い出を持っていない。母が健在だったということさえ知らなかった。

 母を失った少女と、母を持ちながらそのぬくもりを知らない少年。

 あかねが乱馬の母に肩入れして奔走するわけは、あかね自身の「母に会いたい」という気持ちのあらわれなのである。

 つまり、あかねにとって、乱馬の母とは、死んだじぶんの母の身代わりというか、母親というものへの憧れ・甘えといったものを向ける対象なのだ。

 これはどういうことかというと、あかねはこのエピソードの時点で、乱馬の母親を自分の母親にするべく無意識下に行動しはじめた、ということなのである。

 あかねはおそらく、配偶者としての乱馬を失なうことよりもむしろ乱馬の母親との関係が切れることを怖れるようになるだろう。それはすなわち、母親を再び失なうことになるからである。

 それは、言い替えれば、あかねと乱馬の間に絆ができたということだ。ふつう、恋愛ものは、キスやセックスといった肉体的な絆をもって恋愛の成就とすることが多い。「らんま1/2」も、凡庸な作者の手になれば、乱馬とあかねが結ばれておしまい、という終わり方になっただろう。だが、そうはならなかった。

 原作における最終話は完全な終わりかたではなかった。だから「延長戦」という言いかたで締めている。しかし、実際のところ、「乱馬とあかねの物語」はそれより以前に決着がついているのだ。何度も繰り返される乱馬の母にからむエピソード――公紋龍との山千拳・海千拳の話にしても、乱馬の正体がのどかにばれる話にしても、その後の乱馬たちが天道家を出るくだりなどにおいても、もはやあかねは答えを出しているということがわかる。100%乱馬に肩入れし(乱馬に対しては意地をはるのだが)、のどかに対しては「よき嫁」としての振る舞いを見せている。

 子はかすがい、という言葉があるが、乱馬とあかねの場合は、かすがいは母なのだ。

 テレビシリーズがここまで描かなかった(描けなかった)のは、放送回数の問題でやむをえないが、「乱馬、ミーツ・マザー」のエピソードをラストに持ってくることで、すくなくともその構造を暗示することはできた。だから、最終回として納得できる内容になっているのだと自分なりに結論づけたりなんかしたりしたのだった。