「時間がないんだから、早くしてよ、もお」
薄桃色のスーツに身をかためた天道なびきが、父である天道早雲の背中を押す。早雲は羽織袴姿だ。
「おとうさん、タクシーが待ってますよ」
玄関前で長女のかすみが手招きする。かすみはシルクのブラウスに藤色のタイトスカートだ。ハイヒールを履き、戸締まりの準備をしている。
「まったく、あんなにせっついてたくせに、当日になるとぐずるんだから」
なびきがあきれたように吐息をもらし、ほらほら、というように早雲をつつく。
「あ――あかねと乱馬くんは?」
「もうとっくに式場に向かいましたよ」
早雲のために草履をそろえてやりながら、かすみが言う。
「早乙女くんと、お師匠さまは?」
「さー、朝から姿が見えないけど? テケトーに会場にいっちゃってるんじゃない?」
なびきはあくまでも面倒くさげだ。
「ほらほら、早く早く。がんばれ、花嫁の父」
そうなのだ。
今日は早乙女乱馬と天道あかねの結婚式が挙行される日だ。
むろん、まだ高校生である二人は正式には入籍できない。だからいちおう「婚約式」というかたちにはなるが、実質、正式な結婚と変わらない。
こうなるまでに紆余曲折はあった。その顛末を語るにはさらにテレビシリーズを104話くらい追加して、映画も五、六本つくらなければならないだろう。
しかし、ようやくその朝はきた。
きてしまったのだ。
*
*
その頃、某所では謎のメンバーによる謎の会合がもたれていた。
五人の人物が出席している。いずれも顔を隠している。
「ついに――きてしまたある」
その語尾で、話者はモロバレであるのだが、いちおう顔を隠したままの人物が低い声でのたまう。
「ほんま、早いなあ――あ、とりあえず、これ食べとき」
これまた顔の部分が暗くてよく見えない謎の人物が、手製のお好み焼きを出席者に振る舞いながら言う。
「ゆうとくけど、お代はもらうで」
ブーブーと非難の声。それでも、目の前にお好み焼きを出されると、とりあえず食べざるをえない。しばし咀嚼の音がつづく。
「それはそれとして……どうするつもりなんだ、みんなして集まって」
バンダナを額に巻いているらしい男が口火を切った。顔はよくわからないが、会合が始まるギリギリの時間にようやくやって来た。道に迷ったのだという。さっきはトイレに行くといって、三十分帰ってこなかった。かなりの方向音痴らしい。
「ほーほっほっほっ」
甲高い笑い声があたりに響く。これまた顔が見えないが、レオタードを着ていることはわかる。新体操で使うリボンを振り回している。
「知れたこと。乱馬さまと天道あかねの結婚など、絶対に認められませぬ」
「当然だっ。おさげの女ともども、天道あかねはぼくと楽しく男女交際すべきなのだ。どうして早乙女ごときに渡せよう」
手にした竹刀で神速の突きをあたりかまわずかましながら、剣道着姿の男がわめきちらす。顔の部分がよく見えないので、だれかはわからない。
「乱馬さまはわたくしの夫となるべき方です」
「あいやー、乱馬はわたしのものね!」
「なにゆうてんねん。うちと乱ちゃんは一度は将来を誓いおうた仲やで」
女たちがたがいに睨みあう。
「いいかげんにしろよ。ここでいがみあってもしょうがないだろう」
バンダナ男が割って入った。うんざりしたような口調だ。
「だいたい、あかねさんと乱馬の結婚を、みんないったんは認めたんじゃないのか?」
「あれはなりゆきある!」
「無効や!」
「わたくしは認めてなんかいませんわ!」
「そうだっ! あかねくんはぼくと交際すべきだっ!」
「……しかし、あかねさんが望んだことなんだ。しょうがないじゃないか」
バンダナ男が苦しそうに言う。
中華服の女が身をよせてくる。
「それでほんとうにいいのか? 式をあげたら、あかねは乱馬のモノになてしまうあるよ?」
「うっ……」
バンダナ男が声をつまらせる。
「そうや。ここに集まった者たちは、みんな利害が一致してる。とりあえずは式をブチこわすんや。そうせな――」
なにかが終わってしまう。お祭りじみた日常も――そして、たぶん彼女たちのアイデンティティさえ――失われてしまう。
その認識は居合わせた全員に共通しているようだった。
「一時休戦、というわけですわね」
「うむ、気はすすまんが、天道あかねとの楽しい男女交際を再開するためだ。がまんしてやろう」
「しかし……」
バンダナ男だけがためらいを見せる。
「参加しないなら、ここから出て行くよろし。そのかわり、あかねが乱馬のモノになるところを指をくわえてながめてるある」
中国娘が意地悪い口調でいう。バンダナ男は肩をおとした。
「――わかった。協力する」
*
*
「まさか……こんなことになるとはなあ」
花婿控え室で早乙女乱馬はつぶやいた。
あかねとの最初の出逢いは最悪だった。色気のない、ガサツな女。そりゃあ、ちょっとはかわいいところもあったが、全般的にはいけすかないケンカ相手だった。
だが、ひとつ屋根の下で暮らすうちに、少しずつあかねのいいところが見えてきた。いや、ほんとうは最初からわかっていたのだが、それを認めるのに乱馬自身、ずいぶんと時間が必要だったのだ。
「けっきょくは、引き分け――なのかな」
好きだ、の言葉はついに乱馬は発しなかった。あかねもそうだ。おたがいの気持ちはわかっている。だけど、それを先に認めるのは負けのような気がした。だから、ガマンしていた。そのガマンの限界が同時に訪れたのだ。
「しょうがないわね」
「しょうがねえな」
それを同時に言った。むろん、どっちが先に折れたかについての議論がつきまとった。0.02秒差であかねが先に言った、ということでとりあえず決着した。ただし、その見返りとして乱馬はこづかいの三ヶ月ぶんのエンゲージリングを買った。おもちゃのような指輪だったが、それを受け取ったときのあかねの笑顔は忘れられない。
つい、顔がゆるんでいた。
「なにをニヤついておる」
目の前にしなびた顔がどアップでせまった。
「うわわっ! なんだよ、じいさん!」
猿のような老人が乱馬の眼前にぶらさがっていた。
八宝斉――乱馬にとっては師匠筋にあたる老人だ。正確には乱馬の父の玄馬と、あかねの父の早雲の共通の師である。
「いーのぉ、いーのぉ、あかねちゃんとケッコンできるなんて」
八宝斉が身体をくねらせる。かわいぶっているが気持ち悪いだけだ。乱馬は辟易した。
と、八宝斉の目がギラリと光る。
「せめて、その胸で泣かせてくれえいっ!」
手にした水差しを乱馬に向かって投げつけてくる。
早乙女乱馬の特異体質については有名だからあまり説明をする必要はないだろう。水をあびると女――しかもプロポーション抜群の美少女――になってしまう乱馬の体質は依然として治っていない。
乱馬はよけられない。目前に水差しがせまる。
「いい加減になさい!」
その水差しが空中でつかみ取られる。奇跡的に水は一滴もこぼれていない。
「貸衣装を濡らしたらたいへんなんだから!」
凛とした声だ。
「あかね」
乱馬は眼をぱちくりした。花婿控え室にどうしてあかねがいるのか。それに、その姿――。
純白のウェディングドレス――ちょっと襟足のところが乱れているのは着付の最中だったのか。それにしても――
「かわいい」
という言葉をなんとか乱馬はのみこんだ。
あかねは乱馬の視線に気づき、自分の姿を思いだしたようだ。
「えへえ、隣の部屋でフィッティングしてもらってたんだ」
その場でくるりと回ってみせる芝居っけはあかねにはない。頬を赤くそめて、乱馬の顔から視線をそらす。
あまりごてごてした飾りはない。フリルも目立たない。スカート部分がふんわりとしているのはお約束だが、地味とさえいえるデザインだ。値段も安いこともあり、選んだのだが、その素朴さがかえってあかねの可憐さを際立たせている。
「へんかな?」
「へんじゃねえ!」
乱馬はつい大声を出していた。そして、あわてた。口がいろいろすべりそうだ。
「てゆうか、馬子にも衣装っていうか、枯れ木も山ににぎわいというか――」
「なんですってえ?」
あかねが眼を三角にする。さらに乱馬はあわてる。
「いや、似合ってるってことさ、その、幼児体型にピッタリのデザイン――」
「乱馬のバカーッ!」
あかねは水差しを乱馬の頭に叩きつけた。とびちる水とガラス。
憤然としてあかねは壁一枚むこうの花嫁控え室へと去っていった。ガニ股でずんずん歩くので、ドレスもだいなしだ。
「つつつ……」
頭をおさえながら、らんまは起き直った。
体格がかわり、女の姿になっている。
「ったく、あかねのやつ、なんて乱暴なんだ」
「おーう、らんまちゃーん」
八宝斉がらんまの胸にしがみついてくる。タキシードを押しあげているふくらみに老人が顔をうずめる。
「やめんかーっ!」
らんまは拳を思いきり突きあげた。
きらーん。八宝斉は、星になった。
「まったくう……貸衣装がべしょべしょじゃねーか」
しかたなく、らんまはタキシードを脱ぎ裸になった。
その時だ。とつぜん柔らかいものに背後から抱きつかれた。
「なっ」
「あいやー、乱馬。わたしがくること知っててハダカになたあるか」
シャンプーだった。
豊かなバストを乱馬の裸の背中におしあててくる。
シルクのチャイナドレスを通じて体温とやわらかさが伝わってくる。下着をつけていないのか、胸のやわやわとした感触のなかに尖りを感じる。
「どっ、どうしてっ……」
この式を迎える直前の大騒動の末、シャンプーも乱馬とあかねの結婚を認める旨の宣言したのだ。
「おれのことはあきらめたんじゃねえのか!?」
「そんなの、忘れたある」
にっこりとシャンプーは笑った。
「らんま、いっしょに来てもらうあるよ」
「なんだと!?」
首にまわったシャンプーの腕がらんまの喉を絞めあげる。
女傑族のシャンプーの怪力はとてつもない。男のときの乱馬であってもてこずるほどだ。ましてや、いまは――
「女らんまになっていてくれて、助かたあるよ」
「どっ……どういう、つもりでえ!」
「あかねとの式はあげさせないね」
シャンプーの目が妖しげに細まる。白い長い指がのびて、女らんまの首筋の一点を突く。
「ぐっ!」
らんまの意識が昏迷の闇に沈んでいく。抗しきれない。
「この経絡は、いかなる達人であっても意識を失うね。ばあちゃんに教わった、<花婿攫い>のツボある」
シャンプーの楽しげな笑い声を、らんまはかすかに聞いたように思った。
*
「ほんっとに乱馬ったらデリカシーがないんだから」
あかねは花嫁控え室にもどるとぶちぶちつぶやいた。
そりゃあ、乱馬に歯の浮くようなセリフを期待するほうがまちがっている。それにしたって今日は特別な日なのだ。
――あたしもいきなり殴ったりして悪かったけど……
自己嫌悪におちいる。
花嫁控え室には今はあかねしかいない。かすみやなびきたちの到着が遅れているらしい。とはいえ、まだまだ式には時間がある。着付を手伝ってくれていた式場の女性係員の姿がなくなっているのに一瞬首をひねったが、すぐにドアがノックされて、式場の制服を着た係員が入ってきた。
やけにスタイルのいい係員だ。年はかなり若いみたいだが、色の濃いサングラスに大きなマスクをつけているので人相はわからない。
「あら、さっきの方とちがう方ですね?」
あかねは小首をかしげた。
係員が答える。
「おーほっほっほっ――さっきの者はちょっとしびれ薬で眠らせて――ではなく、急用ができまして――あたくしが代わりにまいりましたの」
かんだかく耳に刺さる声だ。どこかで聞いたことがあるような気がする。だが、あかねは係員が携えてきたドレスに目が釘づけになっていた。
「さあ、次はこちらを試してみては?」
少しピンクがかったドレスを係員はあかねにむけて広げる。
「でも、このドレスに決めましたから……」
あかねはためらいつつも、自分が身につけているドレスにそっと触れる。
「ほほ、遠慮することはありませんわ。これもサービスですから。いくらでも試着してくださいな」
あかねの視界に淡いピンクのドレスが映る。シンプルないまのドレスもいいが、エレガントなこのドレスも捨てがたい。一度しかない機会だから、いろいろ着てみたい、という思いがためらいを押し切る。幸い、まだ式まで時間は充分にある。
「じゃあ、お願いします」
あかねは言った。
「じゃあ、これ、着てみましょうね」
係員がドレスの着付をはじめる。プロだから当たり前だが、手慣れている。
「着せるの、うまいんですね」
「それは当然。わが九能家では武芸のみならず、着付も免許皆伝――ではなくて――仕事ですもの、おほほほほほほ」
「そうですよね」
ドレスの肌ざわりが嬉しくて、係員のセリフの前半部分を聞き逃したあかねは納得してうなずいた。
「ああ……胸の部分があいちゃってる」
本来ならばぴったりとふくらみに当たって、谷間を強調するようなデザインになっているのだが、あかねの胸では隙間があいてしまう。ブラがまる見えになってしまってみっともない。
「ウェストはキツキツですわよ」
背中に回ってファスナーを上げようとしていた中背の係員がそう宣告する。
「うぐっ」
お腹の部分がきつくなって、あかねはうめく。
「見た目よりサイズが大きくていらっしゃるのね、胸以外は」
係員が笑いを含んだ声で言う。
あかねの負けん気に火がつく。なにおう、と思う。根性さえあれば、こんなドレスくらい。
「だいじょうぶです。着れます。ぜったいに、これを着ます」
もはや、このドレスを身に着けること自体が目的にかわっている。
係員は思案するポーズを取った。
「じゃあ、特製の矯正下着を使ってみてはいかが?」
「矯正下着?」
「コルセットとパンティが一体になった矯正下着ですわ。お客さまのような体型の方でも、あたくしのようなナイスボヂーになれますのよ。ただ、ちょっと特殊な着け方をしなければならないけど」
サングラスでマスクで顔はわからないが、たしかにこの係員のボティラインはあかねよりもはるかに女らしい。相手の言いかたは気に食わないが、あかねはうなずいていた。なんでもやるつもりになっていた。これには女の誇りがかかっているのだ。
パンティに手をかけて、するりと脱ぐ。ウェディングドレスを半分着つけた状態で、あかねはノーパンになった。もっとも、ドレスのすそをおろせば、どうということはない。
脱いだパンティはたたんで、テーブルの上の脱衣かごに入れる。
「じゃあ、始めるますわよ」
式場の係員の制服を着た女は、大リーグ養成ギブスもかくやと思われる、コルセット一体型の下着を手にした。
「すそをまくってくださるかしら?」
あかねはさすがにちょっと躊躇した。だが、あこがれの体型になるためだ。女湯だと思えば、これくらい。
ええいっ、とあかねはふんぎりをつける。
係員の前に下半身をさらしていた。
自分の手でウェディングドレスのすそをからげて、下半身をさらしているのだ。これはかなり恥ずかしい状況だ。
係員がサングラスごしにあかねの股間に視線をあびせている。あかねの鼓動が速まり、わずかに息が早くなった。
相手の視線は値踏みするような感じだ。
「あの……」
このままの状態で置いておかれてはたまらない。あかねは先をうながした。
「はい、じゃあ、始めますわね」
係員はうなずき、道具箱のふたを開いて、クリームが入っているらしき壜を取り出した。バイオレット色の毒々しい壜だ。
「じゃあ、脚をちょっと開いて」
中背の係員がひざまずいて、あかねの股間に正対する。
はずかしい。はずかしいけど、あかねは脚を開く。
「この下着はタイトですから、股ずれをしないようにクリームを塗りますわよ」
「はい……えっ?」
どこに塗るのかに思い当たって、あかねはぎょっとする。だが、その時にはもう係員の指が股間に入っている。
「きゃっ」
「じっとしていてくださらないこと?」
係員に叱責される。あかねは唇を噛んだ。
そんなところに他人の指が入るなんて。もちろん、初めてのことだ。
だが、もちろん指の動きは事務的であった。クリームを鼠径部にすりこむ。その部分がぽっと熱をもつ感じがする。
「では、着けますわよ」
その下着は、コルセット部分は背中で、股ぐりのところは前後から垂らした布地を股間のところで留めるようになっていた。
コルセットは、地獄だった。
係員がぐいぐいしめつけくる。そうしないとホックがはまらないのだ。
「ぐ、ぐっ……」
苦しい。でも、がまんだ。映画の「風とともに去りぬ」でスカーレット・オハラがコルセットで締めあげられていた――そのシーンを思い出す。これに耐えれば、ビビアン・リーのような細いウェストになれるのだ。
次に、股ぐりの部分のホックをとめた。これもきつい。しかも、食い込む。たしかにクリームを事前にすりこんでいなければ、さらに痛んだだろう。
大きめのホックがちょうど股間の敏感な部分にあるのが少し気になるが、それよりもなによりもウェストが苦しい。
「さあ、できましたわよ」
矯正下着を着けおえると、ドレスのファスナーは嘘のようにあがった。胸の部分はスカスカなままだが、かがんだりしなければ胸が覗くことはない。デザイン的には、なんとなく胸が大きくなったようにも見える。
ドレスに合わせたヴェールをつけて、試しにブーケを持った。
姿見に自分を映してみる。
――われながら見違えるようだ。
強調されたバストに、折れそうなくらいに細いウェスト。そして、適度に張りだしたヒップ。少し大人っぽい、抑え目のフリル。シルクの風合いは最高だ。
あかねはぼうっとした。心臓がとくとくと鳴っている。自分でも信じられないくらいに似合っていると思う。乱馬に見せたら、どんな顔をするだろう。
想像するだけで、ぞくぞくした。
ぞくぞく?
あかねは自分の頬が赤くなっていることに気づいた。目がうるんでくる。息が、コルセットのせいばかりでなく――苦しい。
身体に変化が訪れていた。急速に、激しく。
だが、不快ではない。
身体が軽くなり、誰彼となく抱きつきたいくらいに幸せだ。
そう、幸福感。
いまなら、だれにどんなことをされたって許せるにちがいない。