一子ちゃんが変人になってしまった。
変わってるのはもとからなのだが、ここのところ、それに輪をかけている。
たとえば。
テレビをみていて、ドラマとかでラブシーンになるとする。
家族でいると、あれはけっこう居心地悪いものだ。とくに宇多方家の場合、思春期の女の子ばっかりだから尚のことだ。
だが、一子ちゃんの場合は極端すぎる。キスシーンになると、顔が真っ赤になり汗をたりたり流しながら、半泣きになりつつ、「やーん」と叫んでテーブルの下にもぐるのだ。
15歳で、いちばんのおねーさんだぞ、いちおう。
それどころか、「キス」という言葉にさえ過剰に反応する。
料理番組でもって「今日のお料理はキスのてんぷらです」
「いやーん」
教育番組で「数字には偶数と奇数があります」
「やだー」
時代劇で「スキありっ!」
「ひゃう〜」
てな具合なのだ。
この奇矯なふるまいに、奇妙に勘のするどい美耶子などがいぶかしんで、
「一子おねーちゃん、なんか変だよ。キスのこと、やたら意識してさ。もしかして、だれかにキスされたの?」
と指摘したりなんかすると、もう大慌てで、
「そそそそそそそんなことないからっ! ぜぜぜぜぜぜぜったいちがうからっ!」
などと墓穴を掘る始末。
しかもその後におれのことをちらちら見るもんだから、気恵くん以下、妹たちの疑わしげな視線まで浴びせかけられる羽目になり、とほほである。
たしかに、夏、チューしたよ。だが、その前に一緒に風呂に入ったりお口でXXしたり、いろいろやってるだろーがよ。なんで、キスだけに反応するのか、ちっともわからん。
もうひとつ困ったことがあって、そっちの方がおれにとっては重要なのだが、一子ちゃんが一緒にお風呂に入ってくれなくなったのだ。
以前なら、おれが風呂場に向かうと、どこからともなくやってきて、たれ加減のお目目を細めて「お背中お流ししますね、遊一さん」と言ってくれていたのに、今ではこっちから「一緒にお風呂入んない?」と水を向けても、首筋まで赤くして逃げ出されてしまう。
――まあ、その方が当たり前の反応という気もしないではないが。
秋風が雲さえ淡くさせたのか。
空は高く澄み渡り、日差しの透明度が増したように思える。
おれは例によって学校をさぼり、宇多方家を探索していた。
いや。誤解するな。
なにも怪しいことをしているわけじゃないぞ。
宇多方姉妹が学校や買い物に行ってる間に留守番をしつつ、財宝の手掛かりを探しているだけだ。
タンスの中をさらったり、壁に隠し扉がないか、とかだな。
なに? それが怪しいだと?
おいおい、ドラクエとかでも勇者が庶民の家の壷から薬草パクってるじゃん。だからおれは悪くないっ。
にしても、そろそろ家の中は探しつくしたんだよなあ。地下道もいろいろ調べたけど、財宝なんてみつからねえし。
発想の転換が必要かもしれないな。
などと思いつつ、一子ちゃんと苑子の部屋に忍び込んだ。八畳の和室。ちなみに、苑子には別に勉強部屋があり、この部屋では寝るだけだ。したがって、基本的には一子ちゃんの持ち物しか置いてない。
家事一般をそつなくこなしている一子ちゃんだが意外にずぼらなところもあって、この部屋を見てもそれがよくわかる。
脱ぎ捨てた服や、繕いものが途中で投げ出してあったり、雑誌がページをひらいたままで放置されたりしている。
それでいて、ごみやほこりは落ちていないから不思議だな。
もしかして、この乱雑な配置自体、なんらかの意味があるのかもしれない。
――んなこたーないか。
掃除はそれなりにちゃんとするが、片付けることは苦手、ということなのだろう。
ふむ。
勉強机がわりの文机があるな。前に聞いたことがあるが、じいさんの形見らしい。古いものなのだろう、使いこまれてピカピカだ。
その上には一子ちゃんの勉強道具がある。通信教育のテキストとノートだ。いわゆる大学進学の資格をとるためのカリキュラムらしい。
偉いな。妹たちのために高校進学を断念したとはいえ、向学心は失っていないらしい。
おれはノートを取り上げてぱらぱらとめくった。
ペン習字のお手本のようなきれいな筆跡で――
遊一さん遊一さん遊一さん、好きです好きです大好きです、愛して愛して愛してます、どうか一子のいやらしい濡れ濡れのおまんこに、その猛り立ったでっかいチンポをぶちこんでください……ああああああ書きながらイッちゃうイッちゃう遊一さああああん……
とか書いてあったらさすがに引くなー、と思ったが、もちろんそんなことが書いてあるはずがない。
もとより一子ちゃんには性的な知識というものが欠如しているのだ。この情報過多の時代にあっては奇跡のような存在だ。
書いてあるのは献立メモだとか、その日の予定だとか、そんな日常の記録だ。まあ、忘備録ってやつだな
む?
なんだこれ?
今日の日付だな。
日柳の小父さまご来訪予定。
大人になるためのお勉強、今日こそ、勇気をもって、あの方に頼んでみよう。
日柳ってだれだ?
ひやなぎと読むのかな。
え?
これで、くさなぎ、ってゆーのかよ。
って、だれから教わってんだ、おれ。
それにしても意味深だな。大人のお勉強って、まさか……
そのときだ。
「ただいま〜」
一子ちゃんが帰ってきたようだ。
まずい。おれは急いでノートを閉じると、押し入れに飛び込んだ。ここには地下道への抜け穴があるのだ。地下道からは、宇多方家のほとんどあらゆる場所に移動できる。行けないのは風呂場とか厠とか台所――いわゆる水回りのところだけだ。
とまれ、おれは地下道を徘徊し、ふだん使っていない客間の床の間の隠し扉から出ることにした。この扉はいわゆるどんでん返しになっていて、忍者気分が味わえるから好きだ。
ぐるん。ぱたん。
客間は十畳ほどの和室だが、畳はきれいに掃き清められている。
座卓が置かれているだけのシンプルな空間だ。そのほかの調度といえば、床の間の山水画と、その上の壁に飾られた宇多方家歴代当主の写真くらいか。むろん、先代のじいさんの写真も飾ってある。
山水画は古いがさほど価値があるものではないようだ。ちなみに裏側にも同じ山水画がかかっていて、表裏になってもすぐにはばれない工夫がしてある。
おれは歩きだそうとして気がついた。
手のなかに一子ちゃんのノートがある。つい、持ってきてしまったのだ。
やべ。返してこなきゃ。どんでん返しを再度使って抜け穴にもどる――が、あわてていたので服が壁とどんでん返しの間に引っ掛かってしまった。
その時だ。
なにやら話し声がして、客間のふすまがからりと開かれる気配。
続いて、電気がつく音がした。
「悪かったな。約束の時間より早く来てしまって」
しわがれたオッサンの声だ。非礼をわびている内容なのに、とてもそうは聞こえないのは、傲然とした口調のせいだろう。
「いえ、わたしもちょうど帰ったところでしたから」
一子ちゃんの声だ。
おれは首を巡らせて、どんでん返しと壁の合わせ目に目をあてた。
どうやら、服の端がはさまっているおかげで、わずかにすきまができたようだ。
客間の様子が見える。
白のカットソーにタータンチェックの巻きスカートという普段着姿の一子ちゃんと、紬を悠然と着こなした恰幅のいいオヤジが部屋に入ってきている。
オヤジは明らかに中年太りで、頭もスダレ状に薄くなっている。いつも汗をかいているようなアブラギッシュな感じ。獅子鼻に垂れ気味の細い目――まあ、典型的なオサーンだな。
一子ちゃんがその傍らにかがみ、座布団の位置を直していた。スカートが短めだから、太ももがあらわになっている。くあー、いつもながら無防備だなあ。
オッサンのやつ、凝視してる! うわ、わざとらしく咳払いしつつ懐からケータイ取り出して、一子ちゃんのスカートの中を撮ってやがるし! 盗撮癖あり、かよ!
「小父さま、何か音が」
ケータイで写真を撮ると音がするからな。一子ちゃんが不思議そうに振りかえる。
「む? そうか? わしには聞こえなかったが――ああ、秘書かね? 来週の予定だがどうなっておるかね」
ぬけぬけと電話してるふりをしてやがる。こいつ、曲者だな。一子ちゃんが天然で、ごまかされやすいことを知っているのだ。
「――まったく、使えんやつだ」
電話を切るふりをして、オッサンは舌打ちする。
「小父さま、お座りになってお待ちくださいね。いま、お茶のしたくをしますから」
「うむ」
オッサンは当然のように上座に座った。
部屋を出て行く一子ちゃんを粘っこい視線で見送る。
「ふーむ……ますます似てきたな……」
一子ちゃんがいなくなったところでオッサンがつぶやいた。
「おいしそうに育ちよって……たまらんのう」
む。オッサンが(´Д`;)ハアハアしはじめたぞ。ヤヴァい!
だが、おれは身動きできない。なぜなら、はさまっている服をむりやり引っ張ったら、まちがいなく音がする。そうしたら、どんでん返しのことがバレてしまうかもしれない。おれ的に大ピンチだ。
そこに、一子ちゃんがお盆にお茶と菓子を載せて戻ってきた。
いつもと変わらない様子で給仕をする――おあ! そんなにかがんだら、カットソーの中がのぞけちゃうぞ! ブラチラだ! オッサンの視線は明らかにそこに向かっている。
「ご無沙汰でした、小父さま」
オッサンのトイ面に座って、一子ちゃんは改めて頭を下げた。いつも感心するが、行儀作法はしっかりしてるんだよな、この子。天然なのに。
「うむ。いくら事業が忙しゅうても、たまには一子の顔をみにこんとな」
日柳は丸い顔を歪めて笑った。汚い歯茎があらわになる。
「気恵の受験の件では、保護者印をいただき、ありがとうございました。わたしは未成年ですから、そういう時には小父さまに甘えてばかりで、申し訳ありません」
「なに、それくらい。わしには祥英の理事に知り合いもいるしな。だが、ほんとうにわしの推薦はいらんのか? わしが口をきけば、試験なしでも合格まちがいなしだぞ」
「お骨折りくださった小父さまには申し訳ないのですけれど、実力で合格しなければ意味がないという気恵自身の考えを尊重したいんです。本人が、進学の意志をはっきり見せたのはこれが初めてですし」
「まあ、そんなこと言っても、実際のとこらはカネだろう? たしかに寄付金は多少いる……が、この家屋敷をわしに任せれば、そんなもの問題にならんぞ。な、そうしなさい。悪いようにはしないから」
こいつ――すべてを金に換算するタイプだな。
「この家は祖父が遺してくれたものですから、わたしの代でなくすわけはいきませんわ」
言いつつ一子ちゃんはおれの方に顔を向けた。どきっ! 隠れているのがばれた? だが、一子ちゃんの視線はおれをとがめたのではなく、上へと向かった。
「おじいさまたち宇多方の当主の方々がこの家をずっと守って来たのですから」
ほっ。山水画の真上に飾ってある宇多方じーさんの写真を見ていたらしい。
日柳は苦い表情になって、写真から顔をそむける。
「まったく……源造おじさんも困ったものだな。一子に、こんな厄介な荷物を背負わせるとは」
思い出した。日柳というのは、宇多方じーさん、すなわち宇多方源造の弟が養子に出された先だ。宇多方家の財宝を調べていて、家系図を見たことがある。その知識によれば、日柳家に入った源造の弟がそこでつくった子供がすなわちこのオッサンで、名前は万次郎、宇多方じーさんの甥にあたるわけだ。血のつながりはいちおうあるが、親戚というわけではない――それで合点がいったぞ。
つか、取ってつけたよーな追加設定はやめんか!
「かつての土地バブルの時代ならともかく、今となってはこの家屋敷も二束三文だ。ほしがる業者などそうはおらん。わしを除いてはな。わしは、おまえたち姉妹の幸せを考えてゆうておるのだ。わしにすべて任せろ。そうしたら、一子、おまえも学校に行けるぞ。妹たちの面倒を見ずとも、わしが引き取って何不自由なく暮らせるようにしてやるから」
「小父さま……そのお話は、もう何度も……」
一子ちゃんが困ったように言う。
むろん、日柳の狙いは宇多方家そのものを乗っ取ることなのだろう。
そしてあわよくば一子ちゃんまで……
だが、一子ちゃんは、そうした日柳の狙いに気づいている様子はない。心苦しげなのは、きっと、日柳の誠意を信じているからだろう。
「頑固だな、一子は。源造おじさんに、そういうところはそっくりだ」
ひょい、と日柳は表情をかえた。いい人っぽく笑いかける。金歯が光るなあ。
「小父さま……」
ほっとしたように一子ちゃんは笑顔をかえす。
「まあ、その話はまたこんどにしよう。ひさしぶりに会ったんだから、そうだな、肩でも揉んでもらおうか」
「はい、喜んで!」
いやな話から解放されたせいか、いそいそと一子ちゃんは立ち上がった。
年長者にはきちんと敬意をもって対する、というのはいいことだ。いいことなんだが、一子ちゃん、そいつはやばいぞ!