うたかたの天使たち 第3話 珠子編
「よせっ!」
おれは梯子の最後の数段を駆けあがった。黒い板張りの床がギシリと鳴る。
珠子は身体をのけぞらせて、息をこらえているようだった。視線は宙をさまよって、おれを見ていない。
指だけが別の生き物のように蠢いている。
おれは珠子の肩をつかんだ。軽くゆさぶる。
「珠子っ、しっかりしろ!」
珠子の瞳がまたたいた。常人よりも色素が薄いのか、珠子の虹彩は赤っぽい。その虹彩が淡く燐光を放っているように見える。
「――無礼者」
珠子の唇が動いた。幼い声だが、口調はしっかりしている。
「珠子?」
「わらわはそのような名前ではない。珠姫じゃ」
「ははあ」
こりゃあ、本格的に憑依ネタだなあ。ヒネリはなしかい、作者よ、と思いつつ、おれは珠子になにか着せようと、脱ぎすてられたTシャツを珠子の身体にまきつける。
「何者じゃ、そなた」
珠子――いや、珠姫か――は、けっこうおとなしくおれのされるままにTシャツを着た。パンツもはかせるべきなのだろうが、その、なんだ、それはあまりにもアレじゃないか。とりあえず、裸が隠れたからよしとしよう。
「何者っつーか、ここの下宿人だけど」
「下宿人――食客のようなものか」
珠姫はおれを値踏みするように見た。
「まあ、そんなもんかな。で、珠姫さんは、なんで迷って出てきたんだ? あんたが取りついている珠子はまだ子供なんだぜ。こんな――」
おれはエッチな絵巻物を示した。男女が交わっている図像が、草書体の詞書とともに載っている。ずいぶん古いもののようだが、色彩はなかなか鮮やかだし、描写もリアルだ。
「――渋いモノをオカズにしてオナニーする歳じゃない」
「しょうがなかったのじゃ。この娘の身体にしか、わらわは入れぬのじゃ。ほかの娘にはわらわがおることさえ感じられぬようじゃからの」
珠子の霊感のなせる技というわけか。たしかに、よく霊界通信をしているっぽかったが……。
「で、あんたはこの屋敷に憑いている怨霊というわけか?」
「怨霊とは聞き捨てならぬな」
珠姫は形のよい眉をきりりと上げた。そういう表情はふだんの珠子が浮かべることはないので、これはこれで新鮮だ。
「わらわは宇多方家の祖先じゃ。守り神とゆうてよい。三〇〇年の長きにわたり、この家屋敷を災いから護ってきたのじゃから」
「そのわりには没落してるよな、宇多方家って」
「う」
痛いところを突かれたのか、珠姫は顔をしかめる。が、必死になって言い返してくる。
「しょ、しょうがないのじゃ。わらわがどんなに努力しても、幕府は潰れ、明治政府は渋ちん、代々の当主は学問ばかりして商売に暗い、あげくのはてには農地解放だの都市計画がどうの、ついこの前などは土地バブルだの地上げだの、大変だったのじゃ。こうして屋敷が形を残しているだけでも、たいしたものなのじゃぞ」
「うーむ、そう言われればそうかもしれん」
おれはすこし納得した。たしかにこの東京で、これだけの土地を維持するのは並みたいていのことではなかったかもしれない。
「であろ?」
珠姫がうれしそうに言う。どき。あ、いけね。いま、一瞬、かわいい、と思ってしまったぞ。おれは心を引き締めて、本題にもどった。
「だが、珠子の身体を使って、こういうことはするべきじゃない。さっさと珠子の身体から出なさい」
珠姫は唇をとがらせる。
「いやじゃ。まだ、わらわは気をやっておらぬ。そなたがじゃまをしなければ、いまころは、わらわはこの娘を解き放っておったじゃろうに」
「気をやる? なんだそれは」
「それは……じゃな」
珠姫はちょっと恥ずかしそうに身体をもぞもぞさせる。
「……今様にいえば、イク、というやつじゃ」
作者よ。
おれは心のなかで呼びかけた。
やっぱりそう来るのか?
そういうベタな方向にしか持っていけないのか?
「――わかったよ。じゃあ、おれは外で待ってる。今回ばかりは許すから、さっさと気をやって、珠子を元にもどすんだ。それで、もう二度と珠子に悪さするんじゃないぞ」
おれは立ちあがった。作者の罠にはまってたまるか。
「そんな……。外で待っているとわかっていて、そんなことはできぬ。恥ずかしい」
珠姫は、頬を染めて身体をねじる。
「恥ずかしいったって……じゃあ、ずっとこのままでいるつもりか? 珠子はどうなるんだ?」
「この娘はわらわの子孫じゃ。わらわの心を宿したままでも、差し支えはなかろう」
「あるだろう、差し支え」
「それにの、わらわはほんとうを言うと、今の世の中にあこがれておったのじゃ」
おれの言葉を無視して、珠姫はつづける。
「うらやましいことじゃ。いまのおなごは、自分から殿方に好きと言える。それに、身体の契りも自由じゃ。その絵草紙にあるようなはしたないことをしても、イケテルギャルと言われて誉め称えられるではないか」
「それはちょっとちがうのでは……」
しかし、テレビや雑誌で、自堕落な女子高校生や中学生をコギャルだのマゴギャルだのとおだてあげているのは事実だ。テレビ番組にも彼氏同伴で出演して、エッチの回数などを赤裸々にコメントして、恥じるところがない。社会もそれを受け入れてしまっている。
「わらわの頃は、婿になる殿方の顔もしらぬのがふつうであった。そして、操とは、一生、その殿方にだけに捧げるもの。夫を先に亡くせば、尼になるのが世にいう貞女」
「それも極端だなあ」
おれはうなった。
そーか。大昔の道徳に縛られていた珠姫にとっては、今の世の中は、ある意味、女性が解放されたすばらしい世界、のように思えるのかもしれないな。
「でも、珠姫さんのころだって、そーゆー本があったくらいだから、それなりに色々あったんだろ?」
「これは、わらわの乳母がくれたものじゃ」
珠姫は絵巻き物に手を伸ばした。まるで子供がぬいぐるみを抱くように胸におさめる。
「乳母が? なんでまた」
珠姫が恥ずかしそうに頬を染める。
「これは、わらわの嫁入り道具だったのじゃ」
なるほど、そういう主旨のものだったのか。つまり、夫婦生活の教科書というわけだな。どうりでいろいろな体位が載っていると思った。
「輿入れの日を指折り数えて待ちながら、絵草紙で勉強していたのじゃ」
ようするにオナっていたわけだな。
「だのに……」
珠姫の眉がくすんだ。ふ、と瞳の色が落ちる。
「はやり病にかかってしまい、わらわは……」
ご愁傷さまです、と言うわけにもいかず、おれは目の前の幽霊――というか守り神さまの肩の線を見ていた。
その線がかすかに震えをおびる。ああ、泣くな、泣くな。
おれは珠姫の側に膝をついて、その肩にふれた。
ぴくん、と珠姫の身体が反応する。
「なあ、姫さん、若くして死んじまったのはかわいそうだけど……それはそれでしかたかないだろ? それにあんたは守り神として何百年も立派に宇多方家を護ってきたんだから、胸をはってもいいと思うぜ」
「そなた……」
珠姫が大きな目をおれにむける。涙はない。むしろ笑みを浮かべている。
「意外によい男ではないか」
「は?」
「のう」
「――なんだ」
おれは表情をかたくした。
「……して、くれぬか?」
小さな声で珠姫が言う。
「なにを?」
そろそろとおれは質問する。
珠姫はうるんだ目でおれを見て、それから顔をそむけた。
「恥ずかしゅうて、言えぬ」
「だーっ、エッチしてほしいなら、そう言えっ!」
「エッチしてたもれ」
珠姫は素直に言った。言葉づかいがどうも適当になってきたな。たぶん、それは、霊としてこの世をさまよっているうちに得た知識や珠子の記憶などが混然として、珠姫の語彙になっているのだろう。ということにしとこう、便宜上。
おれは珠姫の要求をはねつけた。当然だろ、人として。
「そんなこと、できるか!」
「――ならば、この娘の身体で外に出て、誰かれかまわずせがんでよいのか?」
おれはちょっとだけ想像して、ブルブルと首を横にふる。
「それはだめだ!」
「であろ? だから、わらわは手淫でがまんしてきたのじゃ。それをそなたがじゃまをした。その責任をとってたもれ」
おれはまぶたを閉じた。もう、予想がついたよ。選択肢の。みんなもそうだろ?
(d)責任なんかとるか。外に行って、だれかにヤってもらいな!
前者は問題外。おれは犯罪者になりたくないぞ。
しかし、後者の選択肢を選んだら――珠姫にあやつられた珠子が街角で恰幅のいいおぢさんに声をかけたりなんかして――「おじさま、お願いがあるの」「ん、なんだい、お嬢ちゃん」「火照ったココに、イタズラしてほしいの」――シャツをめくったらノーパンで、そこにはきれいなワレメがあったりして、悩乱したおぢさんがハアハアしながら珠子を路地裏に連れこんで、「い、いけないお嬢ちゃんだ。そんな子には、おしおきをしてやる」「あんっ、おぢさん、お指が、お指が、ああんっ」「なんだ、もうビチャビチャじゃないか。ようし、もっと太いモノでかきまわしてあげる」「はああっ、大きいのが、おぢさんのオチンチンが入ってくるよぉ」
――なんてコトになってしまうではないか。それはいかん。いかんぞ。
おれは深呼吸する。
「どっちもだめだ」
おれはキッパリと言った。ブーイングがどこからともなく聞こえてくるが、無視無視。
「珠姫はそりゃ、結婚も決まっていて、大人の女性なのかもしれないけど、受け入れる珠子はあくまでも子供なんだ。そんなこと、できるわけないだろ」
「しかし、わらわもこの娘と同じくらいの歳であったがのう。嫁入りが決まったのは数えで十の歳じゃ」
おい。
日本はそういう国ですか。
歴史的にロリですか。
十五でねえやは嫁に行き――数え歳だから、満年齢に直すとだいたい十三くらいか……。名作の童謡の歌詞からしてこれだよ。
「それに、いまどきの子供の発育はよいぞ。この娘もそれなりに育っておる」
わずかにふくらんだ胸元をTシャツの上からさわりながら、珠姫が言う。
グラグラとするおれの理性。すでに硬くなっているおれの本能。ああ、ああ、このまま堕ちてなるものか。
「やっぱり、だめだっ! おれはたしかにこの家の財宝を狙っているような悪党かもしれないが、子供にヘンなことはしないっ!」
「この家の財宝?」
珠姫が目を丸くする。
おれは思わず掌で口をおさえた。
「わ、わっ、今のナシ、ウソ、リセット!」
「財宝というと――アレのことかのう」
珠姫が記憶をたぐるような思案顔でつぶやく。
おれはがばっと向き直った。
「知ってるのか?」
「当然であろう。わらわはこの家を三百年間見守ってきたのじゃぞ」
「教えてくれ! その、ありかを」
「なんじゃ、そなた、宇多方の宝をくすねるつもりかえ?」
珠姫が睨みつけてくる。が、唇には笑みが残ったままだ。
「そりゃあ、その……なんというか……学費が出るか出ないかの瀬戸際だからなあ……」
おれの名前の遊一っていのも、「遊んで一生暮せますように」という意味なのだ。名は体をあらわすというか、おれ自身、財宝だとかそういうものに弱い体質だ。くそう、いやな体質だなあ。
「ならば、じゃ」
珠姫は唇を小さな舌でちろりと舐めた。
「――否やはないであろうが」
ああ、神さま、プリーズ! おれを犯罪者にしないでください! どうか、どうか――!