MA−YU 学園編
目覚めゆくもの
或いは「まゆの危険なアルバイト」

 

  

 ショーウィンドウの前で、七瀬まゆはため息をついた。

 制服姿。学校の帰りだとすぐにわかる。短めのスカートからまっすぐにのびた脚。ストッキングをはかない白い腿があざやかだ。

 身長も、胸も、腰つきも、まだまだ子供のそれだが、通りを行く男たちの視線を吸い寄せる魅力は十分に有している。

 繁華街に女の子ひとり、いかにもナンパ師が寄ってきそうなシチュエーションだが、意外にそうならないのは、この通りが高級紳士物・婦人物を扱うブティック街であるということと、まゆの着ている制服――祥英学園――のブランド力のおかげでもあるだろう。この地域でトップクラスの偏差値と格式をあわせもつ学校の生徒にちょっかいを出す輩は、渋谷や新宿といった都会ならともかく、この街にはそうは多くない。

 まゆが覗いていたのは男性用のシューズショップである。本革のビジネス・シューズ。三万円より安いものは並んでいない。

「高いなあ……本革の靴って」

 まゆはつぶやく。

 自分の合成皮革の靴を見おろす。制服のブランド力に比べると、ちょっとみすぼらしい大量生産品だ。

「でも、おにいちゃんなんて、もう何年も同じ靴はいてるしなあ」

 良明の靴を思い浮かべる。ほとんど底がすり減ってしまったビジネスシューズ。雨の日は水がしみるのを覚悟しないといけないような。

「買ってあげたいな……。せっかくお仕事がんばってるんだもん」

 いっしょに暮している沢良明はこの春、めでたくサラリーマンに復帰した。だが、外を歩き回る仕事らしく、毎日ヘトヘトになって戻ってくる。残業や休日出勤も多い。平日はほとんど会話らしい会話さえできないくらいだ。

 その良明の足許がいつも気になっていた。

 どうせ良明が買うのは一万円しないような安い靴に決まっている。自分のことにはまったくといっていいほどお金を使わないのだ。むろん、それはまゆのために高額の授業料を払わなければならないからなのだが――

「おにいちゃんのお誕生日くらい、ちゃんとした贈り物がしたいよ」

 まゆはつぶやいた。

 

 

「アルバイト? まゆちゃんが?」

 たぶんクラスでいちばん仲がいい加織が眼鏡のむこうで目を見開いた。

「優等生のまゆちゃんが、いったいどういう風の吹き回し? バイトって、うちの校則では禁じられてるよ?」

「それは知ってるけど……」

 まゆは口ごもる。

「……加織ちゃん、前にバイトしたことあるって言ってたでしょ? だから」

「まあ、けっこうスリルあるから、あたし、たまーにやってるけどぉ。まゆちゃんもそーゆーの味わいたいんだ?」

「スリルとかじゃなくって……ちょっと買いたいものがあるから」

「わかる、わかるよお。4万や5万のお小遣いだけじゃ足りないもんね」

 祥英の生徒であるからには、加織も裕福な家庭の子供なのだ。お小遣いの桁もまゆとはひとつ違う。

「で、なに買うの? 新しいケータイとか? 写真とれるやつ? それとも、やっぱ服かな?」

「うーんと……まあ、そんなトコ」

 さすがに、同棲相手の靴を買うためだとは言えない。

「いくら欲しいの? それって、どこまでオーケイかにもよるんだけど」

「ど、どこまで……って?」

「またまた、とぼけちゃって」

 加織が笑う。

「そりゃあ、食事とカラオケだけで3万4万くれる人も中にはいるけど、そんなの滅多にいないしね。全部アリでそれくらいが今の相場だし。まあ、まゆちゃんなら、もっと吹っかけても大丈夫だと思うけど」

「か、加織ちゃん、その……バイトって……」

「んー、バイトっていうか、いわゆる援交みたいな」

「そ、そういうんじゃなくて」

「えー、ちがうの?」

 加織は不思議そうに目を寄せた。

 まゆは言葉に困る。

「あの……その……加織ちゃん……してるの?」

「だから、食事とかならつきあったことあるよ。最後にちょっとだけ胸を触らせてあげたら、いっぱいお金くれた」

 にっこりと微笑む。無邪気とさえ言える笑顔だ。

 まゆは、引きつった笑みを浮かべるしかなかった。

 

 

「学校公認のバイトって――そーねー、教務課の掲示板にたまに出てるけど。ほら、大学部の心理学科の実験とか。そういうボランティアにはお礼が出るみたい」

 級友にそう教わったまゆは、学園の教務課にまでやって来ていた。

 たしかに、ボランティア募集の掲示は何件かある。だが、純粋な無償ボランティアだったり、「薄謝」とあるだけだったりして、どれくらいもらえるのかわからない。

 それに中等部の生徒を対象にしているものはひとつもないようだ。

 それでも諦めきれずに掲示板の端から端までを見ていると――

「こんなところでどうしたんですか――七瀬さん」

 聞き覚えのある声が背後からかぶさってきた。その声質に、ドキリとする。

 こわごわ振りかえる。

 長身で白衣をまとった白皙の男が立っている。鏑木だ。

 中等部では単なる「校医」だが、大学部では医学の講座を持つ、歴とした教授である。それも、かなり重要な研究成果をあげ続けている優秀な医学者でもあるらしい。それを知ったとき、まゆは驚きのあまり、ポカンとしたものだ。

 入学式の日のできごとは、むろんまゆの胸におさめたままだ。ただ、鏑木と顔を合わせることは極力避けていた。さいわい鏑木のほうから何かしてくるということもなく、現在に至っていたのだが――

「アルバイトでも探しているのですか?」

 鏑木の指摘はいつも的確だ。まゆは否定も肯定もできず、固まってしまう。拳をかためてスカートの前を押さえ、防御的な姿勢をとるのが精一杯だ。

「わが学園は初等部・中等部はアルバイト禁止です。知ってますね?」

 まゆはかろうじてうなずく。鏑木は無表情なまま、言葉をつづける。

「あなたたちの年齢では、まだまだ、社会に出て責任のある仕事をこなすことはできません。雇用側の管理責任も問われます。そして、また、得られたお金でなにをしようとしているか、も、問題です。よぶんなお金を持つことは、往々にして、悪い誘惑に乗ってしまう機会を作り出しかねません」

 まゆはちぢこまった。鏑木の言っていることは正論だけに反論のしようがない。

 と、鏑木がわずかに口調をかえた。

「しかし――わたしは生徒の就労を否定するものではありません。働くことによって対価を得る――それも立派な学習だと思います」

 顔をふせていたまゆは、え、と顔をあげる。鏑木は薄く笑っていた。

「もしも、七瀬さんにやる気があるのなら、わたしの授業を手伝ってもらえませんか? お礼はしますよ――そうですね、講義ひとコマあたり3万円出しましょう」

「ほ、ほんとうですか?」

 思わずまゆは伸びあがっていた。それだけあれば良明のためにブランド品の靴が買える。

「ほんとうですとも」

 鷹揚に鏑木はうなずく。だが、まゆの胸に、ふっ、と疑念がさす。入学式のときのことを思い出したのだ。

 その表情の変化に気づいたのか、鏑木の口調が柔らかさを増す。

「言っておきますが、わたしの講義のアシスタントですよ。十数名のゼミ学生も同席するのですよ」

 まゆはすこし安心する。学生たちがいっしょであれば、鏑木もむちゃなことはすまい。それよりもなによりも、鏑木の出した条件はあまりに魅惑的だった。一日で――いや、二時間たらずで目標額が達成できるのだ。少々の無理難題でも、それくらいの時間ならば我慢できる。

「や、やります」

 まゆは申し出ていた。

 

 

 鏑木研究室は学園の敷地の東端にあった。ドーム状の外観を持った、白い建物である。

 学園でも特別な位置を占めているという、鏑木教授専用の研究棟なのだ。

 午後の授業が終わったまゆは、級友たちの誘いをふりきって、ここにやって来ていた。

 人気のない玄関ホールを抜け、指定された研究室へと向かう。

 薄暗い廊下に満ちる匂いは、なんとはなしに病院っぽい。

 まゆは、病院特有の臭気が嫌いだった。両親の死を思い出すからだ。水への恐怖は克服できたものの、消毒薬のこの匂いは依然として苦手なままだった。

 ようやく、研究室のドアの前にたどりつく。おそるおそるノックすると、すぐに、「どうぞ」という返事がある。鏑木の声にホッとするのも変だが、ともかくもまゆはドアを押し開けた。

 鏑木の背中が見えた。机について、パソコンのキーボードを操作しているようだ。

「入って、そこに座っていてください。すぐに済みます」

 振りかえることもなく、鏑木が言う。「そこ」というのは、部屋の中央にあるソファのことだろう。

 まゆは部屋を見渡した。書架が壁を埋めつくしている。金文字で背表紙に表題が書かれた立派な本もある。ほとんどが海外の文献らしい。とにかく、ものすごい量だ。書架がふくれあがって、いまにも爆発しそうなほどだ。

 机もそうだ。書類や書物が折り重なっているのをなんとかかきわけるようにして、パソコンのモニターとキーボードが置かれている。机のまわりの壁には、メモ類が無数に貼られている。

 もっと整然とした部屋を想像していたまゆは、あっけにとられた。壁の一隅に、ゼミ旅行かなにかの記念写真が飾られているのをみて、さらに意外の感にうたれる。なんと、その写真のなかで鏑木は含羞んだように笑っているのだ。

 作業が終わったのか、鏑木が椅子のまま、くるりとまゆのほうを向く。

「お待たせ。コーヒーでも淹れましょう」

 鏑木はすっと立ち、部屋の一角に移動した。コーヒーメーカーのサーバにたくわえられていた琥珀色の液体を紙コップにそそぐ。その姿は所帯じみてさえいる。

「あ……おかまいなく……」

 まゆはソファから立ちあがりかける。鏑木はそれを制して、まゆに紙コップを渡す。

「熱いから、気をつけて」

「は、はい……」

 鏑木のイメージが変わっていく。なんとなく不思議な感じだ。

 

 

「で、やっていただきたい仕事のことですが」

 ソファの対面に椅子を移動させて、鏑木は切り出した。

「この後、わたしのゼミがあるのですが、その際の被験者になってもらいたいのです」

「ひけんしゃ……って、どんなことをすればいいんですか?」

 コーヒーをすすって少しリラックスしたまゆは質問した。

「なに、かんたんなことです。ただ、横になっていればよいだけですよ」

「横に……? それだけでいいんですか?」

 そんなことだけで3万円も貰えるものなのだろうか。

 鏑木は穏やかにうなずいた。

「ええ。それだけです。あなたから、なにかしてもらったり、しゃべってもらったりする必要はありません。もちろん、声を出したければ、自由に出してもらってかまいませんが」

「声を……?」

 まゆはわからない。

「じゃあ、先にお支払いをしておきましょうか。わたしはこう見えて忘れっぽいタチでしてね。覚えているうちにするべきことはしておかないと」

 鏑木は白衣のポケットから封筒を取り出した。そのなかから、手が切れるような新札を覗かせて、まゆの手に押しつけた。思わず受けとってしまったまゆだが、まだ肝心なことを聞いていない。

「あ、あの、仕事の内容についてもっとくわしく……」

 鏑木はデスクに積んであった書類の一枚をひょいと取りあげた。

「今日の講義のレジュメです」

 まゆはそれに目を落とした。難しい用語がならんでいる。英語か――独語かもしれない――横文字もずらずらとならんでいる。だが、ひとつだけ意味がとれたのは――

『未経産婦の外性器の診察および……の手順』

 性器、という単語にまゆの頭が一瞬思考停止する。講義の手伝い? 横になるだけ? まさか――

「わ、わたし……帰ります」

 まゆはあわてて立ちあがり、そして、手にした封筒に気づいた。

「これは、お返しします」

 震える手で封筒を鏑木に突きつけるが、鏑木は笑みを浮かべたまま、受け取ろうとはしない。

「七瀬さんはお金が必要なのでしょう?」

「そ、そんな仕事――絶対にできません」

「そんな仕事? まだ内容は説明していないはずですが。いったい、どんな仕事だと思ったのです?」

「それは……」

 鏑木に問いかえされて、まゆは言葉につまる。だが、『性器』という単語はあまりに鮮烈だった。

 にやり、と鏑木は笑った。

「もっとも、七瀬さんの推測はおそらく的中しているでしょうね。でも、安心してください。被験体になっていただく際には、顔も名前もわからないようにしますよ。学生たちにもよけいな詮索はさせたくありませんから」

 鏑木の視線がまゆをとらえる。まゆは息がつまり、身動きできなくなる。まるでヘビににらまれたカエルだ。

(どうしよう……)

 なんとかこの場から逃げださなくてはならない。そうしないと、このひとから逃げられなくなってしまう……そんな予感が強くなる。

 まゆはきびすをかえそうとした――と、突然、糸が切れたように、腰から下の力が抜けてしまう。

 ソファに腰を落とし、さらにバランスを失って横になる。声も出ない。舌が痺れて動かせないのだ。

「特製の弛緩剤がようやく効いてきましたね」

 くすくす笑いながら鏑木が言う。まゆは、ふるまわれたコーヒーのことを思い出す。

「大丈夫ですよ。すぐに元にもどります。準備をする間だけ、ちょっとおとなしくしてもらおうと思いましてね」

 鏑木の声はあくまでも穏やかなままだった。

 

 

 

 研究室に隣接した広い部屋。ホワイトボードがあり、物書き机つきの椅子が並んでいる。おそらく、ここで学生の実習をするのだろう。

 その部屋に設置された診察台に、まゆは寝かされていた。スカートとショーツを剥ぎ取られ、下半身は裸である。

 診察台から突き出したアームに両の足首を固定され、大きく広げさせられている。恥ずかしい部分が完全にさらされた状態だ。手首もベルトでくくりつけられているので、手で隠すこともできない。

 だが、いずれにせよ弛緩剤のせいで身動きもできない。声も出せない。

 準備を終えた鏑木は満足そうにまゆを見た。

「協力的なので助かりましたよ、七瀬さん。意外に、この仕事が気に入っているのではありませんか?」

「そんなこと――」

 自然に声が出て、まゆ自身が驚いた。鏑木の目が眼鏡の奥で笑っている。

「薬の効き目はもうとれているでしょう? もともと微々たる量だったのですよ。それなのに、ずいぶんおとなしかったですね? 下着を脱がせるときにも抵抗ひとつしなかった――なぜです?」

 鏑木の指摘に、ドキリとする。たしかに服を脱がされ、拘束されているあいだ、ふしぎなほどに逃げようという気が起きなかった。鏑木には入学式の日に、すべてを見られてしまっている――それが諦念につながったのだろうか。まゆ自身にもよくわからない。

「心理的な影響でしょうね。あなたは、むしろ、こういうふうに扱われるのが好きなんですよ」

 そんなはずないと叫びたいが、言葉にならない。否定しきれないものを自分の心のなかに感じて、ぞっとする。

(お兄ちゃん……)

 良明のことを思い浮かべる。さらに胸のなかに重苦しいものが広がっていく。罪悪感。だが、それとは別のベクトルをもつ感情がそこにひそんでいることに、まゆも気づきつつあった。じんじんと、甘い疼痛が――

「そうそう、顔を隠しませんとね」

 まゆの表情を観察していたらしい鏑木は思いだしたようにそう言うと、黒い布でまゆに目隠しを施した。

「黒い目線で写真の顔を隠すのがあるでしょう。これはその3D版ですよ」

 目隠しとはいえ――生地の目が粗いので、布ごしに外の様子を見ることができた。まゆの視界を遮るのが目的ではなく、その顔だちを隠すためのものだから、それでよいのだろう。

 その時、講義の始まりを告げるブザーが鳴った。

 実習室の扉がの向こうから、学生たちのものらしい話し声と足音が聞こえた。

(見られる――っ!)

 まゆは足首を固定されていることも忘れて、股を閉ざそうとする。反射的な動きだ。

 鏑木はうっすらと笑いながら、白いシーツでまゆの股間を覆った。

「実習開始まで、大切なところは隠しておきましょうね……」

 

つづく……