うたかたの天使たち 第四話(3)


3.夜這いじゃないのに

 あわわわわわわわわ。

 どどどどどどどどど。

 しよしよしよしよ。

 おれの唇はわなないてしまって、まともな言葉になりゃしない。

 目の前にいるのは苑子だった。

 その傍らには一子ちゃんもいる。

 おれは、一子ちゃんと苑子の部屋に来てしまったのだ。さっきの狭い空間は押し入れだったわけだ。あの通路は、この屋敷の地下に張り巡らされているのかもしれない。

 苑子は半ば寝ぼけたような仕草で、枕元に置いてあった眼鏡を手に取った。苑子はかなりの近視なのだ。

「え? おにいちゃん? どうして?」

 眼鏡をかけた苑子の眼が丸くなる。寝起きの混乱から醒め、おれの異様な風体に気がついたようだ。悲鳴をあげたそうに唇を開く。

 おれは覚悟した。居候の身でありながら、こんな泥棒のような格好で家のなかをうろついていたのだ。信頼を失うのはやむをえない。

 と、苑子は自分で自分の口を手でおおった。声をこらえたようだ。

(いったい、どうしたの、おにいちゃん)

 囁き声で聞いてくる。

「いや、その、あのな」

(しいっ……一子お姉ちゃん、さっき起きてたみたいだから、眠り浅いよ)

 苑子が唇の前に指をたてる。

 見ると、一子ちゃんは掛け布団を抱きしめるようにして、横を向いて寝ている。キャミソール姿なのは、途中で目覚めて自分で脱いだのだろう。

(でも、どうやって入ってきたの? 戸の前には一子お姉ちゃんがいるのに)

 苑子が不思議そうに訊いてくる。部屋の出入り口であるふすまの前に、一子ちゃんが横たわっている。よほどうまくまたがないと踏んづけてしまうような位置関係である。

 まさか抜け穴を通って、押し入れから侵入したとは言えない。おれは引きつった笑顔を浮かべた。

(おにいちゃん、それ、消したほうが)

 指摘されて、慌てて懐中電灯を消す。

 部屋はまた闇に沈んだが、眼が慣れているせいか、周囲のものは充分に見て取れる。

(すまん、苑子。これにはいろいろ事情があって……)

 その事情を説明できないのが辛いところだ。

 苑子はおれの姿をしげしげと見つめている。

(なにか……探してたの?)

 げ、鋭い。

(う……まあ……その……)

(……いいよ)

 苑子が言った。

(ナイショにしといてあげる)

 まじかよ。

 これが美耶子が相手だったりすると、どんな交換条件が出てくるかわかったものではないのだが――苑子にはそんな下心はないようだ。

(気をつけて、帰ってね)

 おれはうなずくと、苑子を抱き寄せた。感謝の意味で抱きしめてやる。

 きゅっ。

 おれの腕の中で、苑子の身体が一瞬とろけたようだった。柔らかい身体だ。まあ、ちょっと丸っこいのかもしれないが。

 苑子は一瞬二瞬、おれの胸に顔をうずめてじっとしていた。

 身体を離しても、しばらくぽうっとしているようだった。

 おれはそろそろと移動を開始した。押し入れの抜け穴から退散するのが一番だが、そうすると、抜け穴の存在が苑子にも知られてしまう。ここは素直に戸口から出たほうがいい。押し入れの中に残した靴が気になるが、これは後から抜け穴経由で回収できるだろう。

 抜き足、差し足、というやつだ。一子ちゃんの枕元を通過する。

 だが、しくじった。やっぱり暗すぎたのだ。

「にゃっ」

 一子ちゃんが声をあげた。

 どうやら、一子ちゃんの髪の毛――まとめずに寝入っていたのだ――を踏んでしまったようだ。

「いたい〜」

 呻きながら顔を動かす。眼をあけた。

 やばい。

 やばすぎるよ。

(おにいちゃん!)

 苑子がおれの手を引っ張った。そのままおれは苑子のふとんのなかにもぐりこむ。

「にゃ〜、苑子ちゃん、髪、踏まないでね」

 寝ぼけまなこの一子ちゃんが半身起き直って、ほにゃほにゃ文句を言った。さいわい、ふとんにもぐりこんだおれには気づかなかったようだ。

「ご、ごめんね、一子お姉ちゃん。うっかりしちゃって」

 苑子が調子をあわせる。

「ん〜にゃらいーよ。おやすみ〜」

 覚醒している時とはまったく別人のような一子ちゃんの口調である。

 また、パタンと横になる。

 ふとんのなかに苑子が顔を入れてくる。おれの耳元で囁いた。

(もうちょっとしたら、一子お姉ちゃん、完全に眠ると思うから……それまで、ここに隠れてて)

 おれに否やはない。ないものの、これは……

 苑子は一子ちゃんに背を向けて横向きに寝ている。

 おれはほとんどその身体に抱きつくようにして――そうしないとふとんからはみ出てしまう――じっとしていなくてはならないのだ。

 なんて苦行なんだ!

 嬉しいけど。

 ちょうど、おれの顔のあたりに、苑子の胸がある。パジャマの下は、当然ノーブラだ。体温のぬくみが直接伝わってくる。

 夜具の中には苑子の肌の匂いがこもっていた。石鹸の匂いと苑子自身の匂いが混ざっている。不思議に落ちつく香りだ。

 苑子はおれの頭を抱いてくれていた。ありがたく、おれは苑子の胸に顔をうずめる。

 ティーンエイジャーになるまで、まだ二年の猶予がある子供の胸なのに、なぜだか母性を感じさせる――と言ったら、怒られるかな。

 胸のふくらみが特別大きいわけではない。どちらかというと全体に脂肪が乗っている感じなのだが、そのふくよかさが気持ちいい。

 ああ、いい気分だな。状況を忘れそうだ……。

 このまま、じっとしていたいな……

 いろいろ、イタズラしてみたい……

 え? やっぱり分岐やるのか?