うづきがアニパロ小説を書く理由

 うづきはパロディ小説(いわゆるアニパロ)をよく書きます。じつはオリジナル小説はさらにたくさん書いているのですが、「世紀末莫迦」において発表しているものに限れば、比率的にはアニメやマンガをパロったものが多くなっています。

 最近、FAN-FICTIONという言葉をネット上で見掛けることが多くなってきました。使われかたを見ていると、パロディとよく似たカテゴリーの作品を指しているように思えますが、自身の作品を「FAN-FICTION」と定義している人のなかには、パロディよりも高級なものを書いているんだ、というニュアンスでその用語を使っている向きもあるようです。

 でも、「パロディ=低俗」「FAN-FICTION=高尚」という構造ははたして正解なのでしょうか?

 ――否。

 パロディとFAN-FICTIONとはスタンスが違うのだ、というのがうづきの結論です。

 すなわち、既成のキャラや設定を借りながら、その作品がフォローしていない別のテーマを追求するのがパロディであり、逆に、本来の作品のテーマを踏襲し、そのテーマの表現をちがったアプローチで追体験するのがFAN-FICTIONであろうと。

 パロディの場合、原作を材料にして、料理の味つけは書き手そのものがおこなうのです。そして、現在の日本の同人誌活動(インターネットも含む)においては、アニパロとカテゴライズされる作品の多くで「エロ」の味つけがなされています。うづきがおこなっている創作活動もそれに該当します。既存作品のエロ小説化というのは、パロディ的な手法そのものです。性というテーマを本来あつかわないキャラクター&世界観でもって、セックスを主題にした作品を構築するのですから。(性以外にもむろんテーマはありえます。シリアスな作品をギャグにしたり、その逆もしかり。また、原作のくだらなさを嘲笑することを目的としたパロディが存在するのも事実です)

 対して、FAN-FICTIONというのは、本来の作品が持っているイメージを踏襲しなければならない。というのは、書く動機は作者がその作品のファンだからであり、かつまた想定読者もその作品のファンだからです。テーマについても、本来の作品が持つものから外れるべきではないし、むしろ、本筋を補完するスタンスで、大好きなキャラクターたちの側面を描くものでなければならない。

 むろん、パロディの場合でも、書く動機は「その作品が好きだから」というケースが多いと思います。うづき自身がそうです。自分にとって価値のある作品しかパロディの題材にはしていません。想定読者も、「原作ファン、あるいは少なくとも原作の内容を知っている人」です。原作を知らずしてパロディは楽しめません。ですが、ここにパロディの書き手にとっての落とし穴があるのです。

 パロディ作品に対する、原作を大事に思う人たちからの攻撃です。お気に入りのキャラクターをバカにするな、貶めるな、という意見です。とくにエロパロに対しては風当たりがつよい。

 エロパロ書きは、想定読者から攻撃・糾弾されるリスクを常に負っているわけです。

「こっちだって、この原作を、このキャラを愛しているんだ」という自負はあるにせよ、社会一般の論理からすればエロパロの立場は脆弱です。多くの場合、争わず、その場から立ち去ることしかできません。

 ならばFAN-FICTION的なスタンスをとってみてはどうか? ――正直いって、FAN-FICTIONはうづきからすれば魅力が乏しいジャンルです。

 以下はうづきの偏見であることをあらかじめ断っておきますが、「FAN-FICTION」と銘打たれた作品のすべてではないにせよ、その大半は、「キャラ萌え萌え〜」「らぶらぶ外伝〜」「なになにちゃんの日常を綴ってみました〜」みたいな「仲良しグループ内で回覧されているポエムっちいブツ」です。なぜか。それは、FAN-FICTIONが、「ファンによる」「ファンのための」「原作のテーマを踏襲した」「風刺や批判のない」「原作の世界観をブチ破ることを放棄した」作品でなければならないからです。

 むろん、おもしろいFAN-FICTIONは存在します。読んで「こりゃうまい」と感じることもあります。ですが、そういう作品はうづきからすれば、FAN-FICTIONと銘打たれていても、実は「良質のパロディ」であったり、あるいは「小説としてすぐれている」ものであることがほとんどです。(小説としてすぐれているFAN-FICTIONは、キャラクターや設定をオリジナルのものにしても、そのおもしろさはかわりません。)

 FAN-FICTIONは原作の世界観やキャラを大事にしているからこそおもしろいのだ、という意見もあるでしょう。でも、その作品が持つ魅力・おもしろさ――その作品を「よいもの」にしているもの――が原作を起源としているのだとしたら、ただ原作を読めば(観れば)よいではないですか。

 多くのFAN-FICTIONは、このキャラのこういうシーンが見たい、このキャラとこのキャラの交流をもっと見たい――といった欲求から成立しているのだと思います。原作が語ってくれなかった部分を補完し、原作に触れたことによって得られた喜びを維持しようとする心のはたらきが、書き手にも、読み手にも存在しているのではないでしょうか。

 原作の持つ「よいもの」を変質させることなく量的に複製していく書き手と、それを受け取る読み手。それぞれの価値基準は共通化されており、そこから離れると異端になる。

 FAN-FICTIONにうづきが入っていけないのは、この共通化された価値観になじめないためです。

 はっきりいえば、そんなものはブチ壊したい。そのためにうづきは小説を書いているのです。

「じゃあ、オリジナルを書けよ。既存の作品に依存するなよ」という批判はあるでしょう。

 はい。オリジナルも書いています。と同時にパロディも書きます。

 パロディというのは、既存の作品なしには成立しませんが、依存しているわけではない。

 たとえていえば、水力発電のようなものです。水力発電というのは、高いところにためた水を落下させて、その高度差を運動エネルギーにかえて発電するわけです。つまり、位置エネルギーをとりだしているのです。

 パロディもそれに似ています。もとになる作品は、有名で、影響力がある作品であればあるほどよい。あるいは作品としてすぐれていればいるほどよい。その持てる位置エネルギーを、異質な方向に転化することで、新たな「おもしろさ」「よいもの」を引き出すのがパロディの方法論なのです。

 問題は、それを悪意、ないしは無知をもっておこなうこともできる、というところにあります。もとになる作品の「よいもの」を理解することなく、まったく別の次元で改ざんして、内容のない猥褻な作品にしてしまう、といったことです。そういうパロディも多く存在しているのも事実です――うづきの作品も含めて。

 同人誌などでよく「作者はこのアニメをよく知らないのだ〜」とか「好きじゃないけどはやりモンだから押さえときました〜」などと臆面なく書きつつ、エロパロをやっている作品を見かけます。うづきは、こういうのは嫌いです。(ただ、作品としてすぐれていれば認めます。パロディは、作者の原作の理解度が低くても結果オーライ的に成功することがあります。ただ、営利目的の同人誌で、いかにも流行ネタでエロパロを描きました、というのはたいてい駄作です)

 パロディは、原作とタメをはって戦う方法論なのです。巨匠の代表作であろうが、その世界観とキャラクターを自分なりに消化して、ちがうテーマで描いてみせることができる。その局面においては、相手がどんなに巨大でも互角にわたりあうことができます(一方的な思いこみですけど)。うまくすれば、原作では描きえなかった領域にまで踏みこめることもあります。

 残念ながらうづきの力ではまだ表面をなぞっている程度です。が、可能性のあるパロディという方法論にはこだわっていきたいと思います。

 端的にいえば、FAN-FICTIONをやっているかぎり原作を超えることはできません。パロディであれば、原作を食うことだって不可能ではないのです。

 すぐれた作品だから、大好きな作品だから――超えたい。

 うづきはじめがパロディ小説を書く理由は、じつはそんなかんたんな一文であらわせてしまうのです。

1999/8/11