ラブリー。
ここではうづきの妄想をつらつらつらと開陳していきます。かなりひどいことも書きますし、なかには反社会的な暴言などもあるかもしれませんが、ここでのことはすべーてたわごとです。実現化するつもりは毛頭ありませんので、ご安心ください。
言い訳ばっかりだなあ。でも、本音でウソを言いたいときもあるじゃないですか。矛盾しているけど。
世の中はラブ&ピースだけでは解決できないこともたくさんあるってことで。
まずは、少女愛について思うところを書きます。とりあえずはこのページの立脚点だもんで。
どうなんだろう。みんな、少女が好きなんじゃないだろうか。
わたしはおとなの女性も好きですよ。精神的なつながりもふくめた関係だと、やっぱり同年代の人じゃないとだめだと思うし。
でも、十二歳くらいの女の子がちょっとおとなびた表情をして車窓の外の景色を見つめていたりすると、「いいなあ」と思うし、ふくらみかけた胸や、まだ細い腰にも色気を感じる。
まあ、趣味にもいろいろあって、十歳未満じゃないとだめだとか、おしめが最高だとか、人それぞれなんだろうけれども、十二、三歳が守備範囲な人って、かなり多いんじゃないだろうか。
というのは、だいたい初恋って十歳から十二、三歳にするでしょう。また、精通するのもそれくらい。つまり、人が性行為に興味を持ち、それが肉体的にも可能になる時期である、と。
その時期に好きになる女の子って、年上ばかりではないはず。同年代の女のを好きになるケースだってあるわけで、体操服の下の胸のかたちを想像したり、鉄棒またぎをしている姿がたまらん、とかいって勃起するのもまたありがちな話です。
そういう心は、誰しも持ちつづけているんじゃないかなあ。
男はロリコンがふつうだよ。断言するけど。むろん、「わたしはそうじゃない」と言う人もいるでしょうが、欲望を否定する意識が強くはたらいているか、あるいは最初に刷り込まれた性的対象が高かった人でしょう。たぶん、初恋とか遅かったんじゃない? あるいは恋する気持ちを知らないか。
好きだから、欲しくなる。男が少女とセックスしたいという欲望を持っているのは、性に目覚めた十二、三歳のころにセックスできなかったからだ。いまだったら、好きになった相手とはからだでつながることができる。でも、あのころはできなかったんだ。だから、いま。
ちがうかな。でも、ぼくはそう思う。男は――恋を知っている男は、みんな少女が好きなんだ。
たとえば文学作品でいっても、光源氏は、十歳にもならない紫の上を見初めて妻にしてしまっているし、サドの「悪徳の栄え」には、十歳から十二歳くらいの女の子を餌食にしちゃうやつらがいっぱい出てくる。「タクシードライバー」という映画には十二歳半の娼婦がでてくる。
問題はね、そういう現実(子供を性的対象とする悪習)がある、ということではないんです。フィクションには現実を映す部分と、願望の部分があわせ鏡のようにして存在している。
つまり、少女を性的対象としてとらえることは現実にあるし、同時に願望でもあるんだ。
たとえば、アメリカでは幼児ポルノは厳禁されている。日本の法律なんかよりずっと厳しい。日本で流通しているロリコン写真なんて、向こうじゃアウトっすよ。
でも、ジョンベネ事件なんていうものが起き、かつ、大センセーションを巻き起こすのもアメリカなんです。子供の美人コンテストがさかんであることからもわかるように、子供に色っぽくふるまわせるのを喜ぶ傾向もあるわけだ。また、ナボコフの「ロリータ」が超ロングセラーを続けてもいるという。ビジュアルではロリコンは禁じられているが、文学ならいいということなんだろう。
日本のアニメやエロコミック(HENTAIという用語がインタネットでは確立してますね)が海外で人気があるのも、海外のビジュアル作品だと禁じ手とされているロリコン的な手法がふんだんに使われているからではないだろうか。
このメディアがすぐれているのは、現実の少女が傷つくことがないという点だ。絵だからね。小説だったら言葉がつくりだす想念でしかない。
実写の幼児ポルノは、けっこう陰惨な感じがして、すなおに勃起できない。まあ、きらいじゃないけどね。なかにはすごく明るくてエッチなのもあるし。そういうのはファンタジーだよなあと思う。
ただ、実写のばあい、どうしてもモデルの子の現在や未来が気になってしまう。だから、ロリコン作品はコミックや小説で表現するのが正解だろう。
そして、そういう「現実の少女が傷つかず」「少女に対する性行為の代替たりうるもの」は、規制すべきじゃない。そうじゃないだろうか? ロリコン作品があるから幼児虐待が起こるのではない。もともと人間には子供に対しても性的に興奮する可能性があり、子供への性的アプローチはいずれにせよ暴力でしかありえない、というのが事実なのではないか。
抑圧はゆがんだ行為につながると思うんだけどなあ。ちがうかなあ。
幼女誘拐事件の報道を聞くとうんざりする。これでまた、メディアのしめつけがきつくなってしまう。実在の人間にはだれも迷惑をおよぼしていない作品たちも、「犯罪者をうみだす温床」であるかのように決めつけられ、それらを好む感性は変質的であるとののしられる。
現実の少女と性行為におよぶことは、フェアではない。たとえ当事者の同意があったとしても、未成年者の意志判断力は薄弱で、そこから発生する事態に自力で対処できない。砕いて言えば、甘い言葉にはだまされやすいし、妊娠、出産といった事態になったらどうしようもなくなってしまう。そういった立場の人間に性交渉を求めるのは、おとなのすることではない。
ましてや暴力でもって、性的なイタズラをしたりするとなると、これはもはや愛情やいたわりの発露ではなく、少女を物体として扱っているにすぎない。
それは、女性を、単に自分の性的欲求の受け皿として、モノとしてとらえているだけなのだ。相手に幼女をえらぶのは、その意志の強要が容易であるからにすぎない。
ここを人々はかんちがいをしている。あるクズ野郎が幼女を襲ったということを、「幼女に性的興奮を覚える変態だから、こういう犯罪をした」と考えるのだ。
しかし、それでは成人女性を襲ったゴミ野郎はなぜ犯罪を起こしたのだろう。成人女性に性的興奮を覚えたから性犯罪に手をそめたということなのか。性的興奮が性犯罪の原因だとしたら、地上にいる全男性が性犯罪をおこなっているはずである。「幼女に興奮する変態だから罪を犯す」という論理は、バカがつかう屁理屈だ。
彼らが性的犯罪を犯すのは、女性をまずモノと考えており、さらには自分の欲望を制御することのできない心の欠陥があったからなのだ。
本質的には、成人女性を襲う人間と幼児を襲う人間は同類である。幼女を襲うのは、「幼女を愛しているから」ではなく「幼女だから襲いやすいから」なのだ。たとえ、四、五歳の女の子に性的興奮をおぼえようが、おしめが好きだろうが、現実に襲うことをしなければ何の問題もない。憎むべきは、対象が幼女であろうが成人女性であろうが、あるいは会社における部下や後輩でもいい、「自分よりも力が弱い存在に対して高圧的にふるまうやつら」なのだ。相手に反撃する力がないと知るや、暴力をふるい、自分の欲求を満たそうとするやつらこそ、断罪されねばならない。
こんな当たり前のことが社会的にはほとんど理解されておらず、なにかしら事件があるとロリータ系の作品に対する風当たりが強くなるというのは悲しいことだ。
作品に罪はない。ましてや、その作品によって欲求を満たし、社会的に適応している人々が後ろ指をさされねばならない理由はまったくない。
満員電車のなかで、若い女性と身体が密着して、ラッキーと思うとともに、「痴漢にまちがわれたらどうしよう」という不安をいだいた経験は誰しもあるのではないだろうか。あるいは、「ちょっと触っても、不可抗力だよな」と自分に言い聞かせたりしたことなどが。
わたしもあります。(^_^;)
でも、犯罪者にはならない。そんなささいな欲望に負けるほど、心の愛は安っぽいもんじゃないですぜ。
ホームページ公開を始めて1ヶ月がたちました。
ここでは基本的にロリがらみの話しかしないと心に誓っているので、抹香くさい感謝の言葉などは書き連ねません。でも、一言だけ。ページを見てくだすってありがとーお。
で、以降はバカ話をします。
最近のコマーシャルでなにがいいかというと、「せがた三四郎」ですね。しかもクリスマスバージョン! したがって、もう放送していない!
どこがいいかっていうと、このCMでは、サンタクロースに子供三人がむらがって「スケボーちょうだい」とかほざくわけですが、喝! とばかりにサンタが怒り、せがた三四郎である正体をあらわにします。そして、ここが大事なんですが、弾き飛ばされた子供のうちの一人が女の子で、しかもスカートをはいているんですな。
げしし。
いやー、パンツが見えちゃうんですよ。これが。
はいてなければもっといいんですが、さすがにテレビでワレメを映すわけにゃいくまいな。
でも、たまにありますよね。むかし、「おかあさんといっしょ」のお風呂のコーナーとか好きだったし。あるいは、タレント一家の温泉レポートとか。タレントといっても、元プロレスラーとかだから、娘さんがいても美少女とはかけ離れていたりするんですが、「それも一興よ」てな感じでグッドです。いまでも、裸の子供に服をいっぱい着せる番組とかもありますし。
とりあえず、幼女のワレメを映しておこうか、という番組が増えるといいなあ。
冗談ですが。
しかし、テレビっていうのは、まったく進歩しませんね。インターネットというメディアに対抗できませんぜ、これでは。「ポケモン」騒ぎだってそうです。たしかに健康上問題がある番組にはガイドラインは必要かもしれないが、安直に放送休止を決めすぎ。あれはたんなる批判封じでしょう。そんなに透過光が危険だったとしたら、うづきなんかもとっくに死んでます。アニメに脳天までつかってたんだから。
リスクがあったとしても、それは個人のレベルで防げる程度のものです。放送をやめることはない。それよりも、小学生が歩く可能性がある道路では一切自動車を走れなくするべきだ。たくさんの死者を出している交通事故の原因である自動車は許されていて、死人を出していないポケモンアニメを危険視するなんて、アホとしか言いようがない。
よく言われる日本人の「ひがみ気質」が出たようで、すごくいやですねえ。そんなにヒットしている番組&キャラクターをひきずりおろしたいのかなあ。
それはさておき。
うづきは日本の青少年の性を憂える者ですが、たとえば、まあ、かわいい七歳くらいの姪があなたにいるとするじゃないですか。まあ、その子のことは赤ちゃんのころから知っているし、もしかしたらオシメもかえてあげたこともあるかもしれない、としましょう。仮定のハナシですよ。
その子があなたの脚をまたいで、股間を擦りはじめたとしたら、どうしますか?
壱 なにげなく脚をずらして、その行為をやめさせる
弐 とりあえず放置して、あたたかく見守ってあげる
参 おもむろに脚を震動させ、あそこにバイブレーションを送ってあげる
あなたなら、どうしますか?
――白状します。うづきは参でした。(冗談ですよ〜)
でも、恐ろしいのは、参どころか、
四 せっかくだからパンツを脱がして、直接こすりつけさせる
とか
五 やむにやまれずお**こにペ+スをこすりつけて、しまいに挿#したところで家人に見つかる。
ですね。
ぜったいしてはなりません。約束ですよ。
その子とあなたの未来がかかっているのですから。
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。いつまで続けられるかわかりませんけど。ゴホゴホ。
いま、ちょっとブルーですね、なぜかというと。
またも通り魔事件。
被害者は女子高生。そして5歳の女の子、その母親。5歳の女の子は亡くなられ、女子高生も母親も重傷だそうです。
犯人はシンナー中毒の若者とのこと。
エッチな話題を中心にお気楽ご気楽(ああこのフレーズなつかしい。ウゴウゴルーガ)なページを運営したいのですが、こういう事件があるたびにどこかしら重いものがのしかかってくる感じがします。
むろん、うづきのページは実在の少女を傷つけたりはしていない。チャンバラで素浪人が悪代官を斬るがごとく、ファンタジーで龍騎士が空を舞うごとく、ここでは架空の存在としての少女が犯されているのです。
とは言いつつも、ほんと……
子供を殺すなよなあ。抵抗できないんだぞ、まったくもう……。
シンナーは脳に修復不能なダメージを与える、恐ろしい毒物です。
ちょっと前、電車に乗っていたら、ジュースの缶にシンナーを入れて吸っているらしき二人連れが乗ってました。なんか、悪質な業者にひっかかって、しょんべん入りのシンナーを買わされたとかなんとか言ってました。でも、シンナーよりもしょんべんのほうが身体にはいいんだよ、飲尿健康法とかあるくらいだし、とか言ってあげたかったんですが、まあ、その場を考えてやめときました。うづきっては小市民なんだから〜
なんかむりやり話題をねじ曲げてますが、うづき的エッチな小説におけるこだわりについてお話しましょう。
なぜロリにこだわるのか。
つまるところ、ロリはファンタジーだと思っているのです。
なぜなら、それは実現はしない夢だから。現実にやってる人もいるんだろうけど、うづきは、現実の少女とほんとうにセックスをすることには否定的です。
つまり、チャンバラは好きだけど、ほんとうに日本刀を持って人を斬ったりはしない。これは極端な例ですけどね。でも、極端すぎる例だとは思いません。
ふつうの生活を営んでいる市民にとっては、少女とのセックスは法的にも人道的にも許されないことであり、非現実的なことなんです。だからこそ、ファタジーとして描きだしてみたい。ありえない夢をいっときみてみたい。
おとなの女性とのセックスは現実に身の回りに転がっています。恋人がいなくても、お金をはらえばセックスは手に入ります。うづきは、おとなの女性が主体のポルノ小説は、よほど工夫がないと読む気になりません。だって、熟れきった肉芯がどうだろうが、熱いしたたりとともにケモノじみた咆哮をあげられたりしても、しょうがないじゃないですか。センス・オブ・ワンダーがないんです。おとなはみんなセックスするモンです。なんでそんなものをわざわざ小説にするのかなあ、と思います。
アニパロやロリ系をうづきが描くのは、それが現実にはないセックスだからです。健全なアニメーションキャラクターがあんなことやこんなことを。あるいは年端もいかない女の子のあそこがこんなになってしまって、とか。それはまさにファンタジー。ほんとうではないからこそ、虚構の世界で実現させたい。それが、うづきの動機です。
ですから、うづきが作品を発信したいのは、そういう現実に対する飢えをもちながらもハメをはずすことなく、正しく生きている人たちに対してなんです。
シンナーでラリって無抵抗な子供を殺したり、あるいは睡眠薬を使って女をコマしたりするクズどものためには一行だって書きません。あるいは一ドットだって塗りたくない。まあ、彼らに、架空の世界のエロティシズムに惹かれるほどの感性があろうはずがないのですが。
ああ、次回は「ワレメだいすきー!」みたいなアホ話ができるくらいに戻っていればいいんですが。
児童売春の利用と児童ポルノの製造販売・所持を犯罪とする法案が現在検討されています。あ、ちなみにマスコミが使っている「買春(かいしゅん)」という言葉は正しい日本語とはいえないので使いません。
すみませんが、3月19日夜のニュースジャパンでちょっと見ただけなんで、くわしい内容は紹介できません。かいつまんで言うと、児童売春の利用の罰則規定において、児童の定義を18歳未満のすべての男女とすること。最近アジア諸国で問題になっている日本人による未成年売春婦買いを処罰対象にすること。および児童ポルノの製造・販売、所持を犯罪とみなすこと。児童ポルノの所持の罰則規定はないそうですが、事態の深刻化によっては罰則をもうけることもありえるとのこと。
議員たちは「わたしはたちは正義の味方よ」と胸をはっています。しかし、児童ポルノの所持さえ犯罪と呼ぶのはどういうことなのか。
ロリコンだから犯罪者予備軍だとでもいうのか。
本屋からロリータ系出版物を駆逐し、表面をきれいにしたからといって、それがなんの解決になるというのか。
「売春は犯罪です」
ごもっとも。
「子供の性を搾取するな。彼らの心と身体をキズつけるな」
お説の通りです。どっちにしろ、子供とセックスするために海外に行くほどカネないもん。
「児童ポルノを好むのは変態だ」
べつにいいじゃん。だれにも迷惑かけてないし。
「児童ポルノを持っているのは犯罪者だ!」
……ちょっと待て。
企業からのカネで飲み食いし、「センセ」「センセ」とよばれてそっくりかえっていたかと思えば、何年かに一度は「どうか一票をををを」と土下座しながら物乞いする選挙権買い取り業者のあなたたちに言われたかないね。
いや、たぶん、この法案を作っている人たちはきっと心から正義を信じて行動しているのだろう。だからこそ怖い。キチガイに刃物のたとえもある。キチガイが正義を信じて法律を作る。寒気がする。彼らは性のなんたるかを理解していない。人の心のもっともやわらかでひ弱な部分に、法という物差しを持ちこもうとしている。それによって傷つけられる人の心には忖度しない。彼らからすれば「変態」が、どんなに苦しんでも、そんなことは関係ないのだ。
子供に対して性的欲求を持つ、こと自体はなんら珍しいことではない。また、醜悪なものでもない。
ルイス・キャロルは愛する少女を思い描きながら「不思議の国のアリス」を書いたのではなかったか? ナボコフが「ロリータ」で表現しようとした少女の魔性は多くの人の心を揺らしはしなかったか? バルテュスの手になるしどけない少女のスカートのひだにひそむ憂愁にとらわれる心は異常か? ベルメールの少女人形の股間に刻まれた陰裂に女の本質を感じて慄然とするとともに陶酔する心は野卑なのか? あからさまなもの、秘められたもの、それらのあらわれにはいろいろ形があるが、しかし、芸術家たちが少女に感じたことと、悲しいことに天使の言葉と絵筆を持たぬわれわれが感じたことが、本質的にちがっているとは誰にも言えはしない。
児童ポルノを擁護するのではない。それらのなかにはもしかしたら犯罪行為をともなって作られたものもあるかもしれない。
だが、その是非を、撮影行為における違法行為の有無に問うのではなく、作品の所持の有無に求めるというのは、表層的なモラルに合致しない性的嗜好を持つ人々に対する国家権力による迫害行為だ。
「変態だから犯罪者と呼んでやる。それがいやなら変態趣味を捨てろ」という恫喝だ。
銀座の女を囲うのは男の甲斐性だが、児童ポルノでオナニーするやつはクズの変態で性犯罪者予備軍だから排斥しろ、というのだろう。
ふざけろ。
おまえたちにはほんとうに美しいもの、愛おしいもの、ふるえるもの、けなげなもの、かきたてるもの、それを表現する喜び、その表現物を享受し同調する悦び、そんなものすべてを知らないのだ。国民を教導することに興奮し、自分の完璧な価値基準のなかに人を押し込めることこそが正しいと考えている、創造とも想像とも無縁な下等生物にすぎない。
そんなおまえたちの作った基準によって、少女は、少年は、すくわれはしない。傷つけられる人が増えるばかりだ。
だいたい、これはだれのための法律なのか。
ほんとうに少女のことを思っているのであれば、法律をどうするこうする前に、東南アジアで身体を売る少女たちに対して養護施設でも作ればよい。彼女たちが身体を売るのは貧しさのゆえだ。それを解消するためにはどうすればよいのかを考えるべきだ。日本政府の金で、学校を作るのもいいだろう。働き口をつくってあげるのも手だ。いずれにせよ、少女たちを闇社会から解放するためにはどうすればよいのか、こそを考えるべきだ。
けっきょく、「日本人は東南アジアで子供を買っている」という悪評をなんとかしよう、というのが動機なのだろう。それだけなのだ。本音は。
ほんとうに必要なことは面倒だからと避けて、法律で国民の性を縛ろうとしている。
正義を振りかざし、自分たちの清廉さをアピールしつつ、本質的な問題解決からは目をそむけ、国民のプライバシーを管理しようとする。これがあの法案の正体だ。
そんなものを認めてよいのか?
だが、残念ながら、この法案はきっと通るだろう。なぜなら、この法案に反対すると、「あいつロリコンだから反対してるんだぜ」と言われるに決まっているから。特に孫くらいの年齢の愛人を抱えている長老議員とかは「当然の、ことじゃ」とかいって賛成するにちがいない。逆に言えば、議論もなくこの法案に賛成する男性議員は年若の愛人を抱えている可能性が高いと言える。
いずれにせよ、悲観的にならざるをえない。この国の政治家に良識はない、人の心の痛みがわかる感性はない、ことはもはや明白だから。
***
うづきは、少女の性を題材にした創作をしています。
だから、この法案の主旨からすれば犯罪者に当たるか、少なくともその予備軍とみなされるでしょう。
作品の公開の方法も考えざるをえません。
小市民にして善良な有権者であるうづきにできることは、この法案を推進している政党、および議員には絶対に投票しないことです。たのむから、この法案に反対している党や議員よ、あらわれてくれい。チャンスがあればかならずあなたに投票するぜ。