萌え道は難しい。
あまりにも高度かつ複雑、微妙にして玄妙、曖昧模糊としており、かんたんには把握できない奥の深さを有しています。
「めがねっこ」とか「デコ」とか「巫女」とか「猫耳」などの単品メニューであれば、理解も容易です。
「はわわ〜なロボット少女がけなげに頑張る姿に萌え」とか「巨乳小学生がランドセル姿でなわとびぶるるんに萌え萌え」とかゆーのも、わからなくはありません。それはそれでドラマチックな光景かもしれないです。
しかし……
「突然12人の妹ができてしまい、かつ、その全員がただ一人の兄を慕う。しかも、全員が異なった呼び方で兄を呼ぶ」
「12匹もペットを死なせながらもペットロスト症候群に陥ることもなく、ペットの生まれ変わりの美少女たちがメイド姿でご奉仕。ついでにいえば、女の子の年齢は6・3・3で12年、小学1年から高校3年までの全学年制覇……」
とかになると、「なにもそこまで」と思ってしまいます。
テレビ番組で視聴率を取るための要素として、「不倫」とか「温泉」「グルメ」「子供」「動物」などが挙げられることがあります。あるいは「大食い」「ギネス」や「びっくり人間」など。これらの要素を積み上げることによって、視聴率を稼ぎ出せるのです。
「温泉グルメ殺人事件 〜ペット探偵ムツゴロウ少年の初めてのお使い〜 不倫妻の怪しい大食いバトルでギネスに挑戦! びっくり人間仰天スペシャル・今夜スタジオがパニックに!」みたいな、新聞のTV欄には収まりそうもない長いタイトルの番組が増えたりするのも、そのような「売れる」要素を詰めこんだ結果なのです。
「萌え」の世界でも同様に、「妹」「眼鏡」「ロリ」「猫耳」「八重歯」「巫女」「メイド」「外人」「ロボット」「巨乳」「微乳」「貧乳」「お嬢様」などなどの要素を積み重ねて、色々な属性の人々を取りこもうとしているのでしょう。
実際、現在のアニメ、コミック、ゲームの企画では、こうした「萌え」の要素をいかに詰め込むかを競い合っている観さえあります。
作品としての善し悪しよりも先に、「萌え」られるか否か、が問われているかのようです。
「萌え」たい――それがユーザーのニーズであるとされば、「萌え」させるのがサプライヤーの仕事ではあります。
しかし、それで正しいのでしょうか? あまりに「萌え」に特化した作品にも、やはり「萌え」は宿るのでしょうか? 「萌え」があまりに規格化され、量産され、「都合よく提供されすぎる」ことで、「萌え」がインフレーション化し、薄まりはしないでしょうか? 《インフレはお金がモノよりも多くなった状態のことをいいますが、ここでは「萌え」の過剰供給をイメージさせる言葉として使っています》
今のところは、人々は12人の妹にも「萌え」られるようです。
しかし、これはさらに「妹」の増殖を生み、256人の妹、とか、日めくり妹、とか、妹カードバトル・スターターキット&ブースターとか、出てきかねません――っていうか、たぶん出るでしょう。今後、全国の「お兄ちゃん」たちは、その人生のすべてを、日々新たに出現する妹との逢瀬のために費やすことになるのです。
ここまで来ると、さすがに、「萌え」は数じゃない、質なんだ、深さなんだ、という声も出てきそうです。
「萌え」をユニット的に組みあわせていく手法は今後も続きそうですが、量的な拡大だけでは限界が来ることは、おそらくは間違いないことだと思います。
ひとつ、「萌え」現象を見るにあたっての「救い」というか、新たな切り口の存在に気づきました。
「ちゆ12歳」で見たんですが、最新の萌えキャラとして、コミックバンチ連載の「ガウガウわー太」の新キャラ、委員長が取り上げられています。
「ガウガウわー太」といえば、絵柄は可愛らしいのですが、べつにオタ向けというわけではない、マジメにペット(動物)と人間の関係を見つめているっぽい作品です。意味もなく女性キャラがパンツを見せるなどの読者サービスなどとは無縁なのです。
その作品に、「眼鏡」「デコ」「口調が高飛車」「でも、実は素直で可愛い性格」というキャラが登場したとたん、ファンは狂喜乱舞、大爆発なわけです。つまり、「萌え」は、お仕着せではない、作品としての土台がしっかりしたところに、突如として降り立つものでもあるようなのです。
てゆーか、「萌え」とは、「これは萌えキャラですよ〜。さあ、萌えるのです」と言われて萌えるものでは本来ないのでしょう。
むしろ、作品の本筋や本来のコンセプトにはない、些細な、あるいは作者も無自覚な部分に、ユーザーサイドが特別な価値を見出す行為――それが「萌え」なのではないでしょうか。
世の「常識人」が見過ごしてしまう、けれど「ちょっといいかも」と思う部分に、「萌え」という価値観を付与することによって、それが腑に落ちるものになる。「これって**属性だよね」と名づけることによって、曖昧だった領域が明確化される――そのようなものなのかもしれません。
これは、非常に高度な文化現象であると思うのです。
「美」や「醜」といった概念は、生来のものではなく、後天的に教育や訓練によって得られるものです。動物は顔の善し悪しで伴侶を選びはしません。人間だって、子供のうちは、顔の美醜など気にしないものです。天使のよーにかわいー幼稚園児が、親の前生の報いを一身に受けたかのような園児と、仲良く手をつないでいる光景はまま見られるものです。
形の整ったものを見た時に得られる心のやすらぎや憧れのようなもの、それを「美」という概念でくくったのです。だれかが、過去に。
「概念」が作られることによって、「価値」もつくられるのです。
おそらく、「萌え」もそのような概念のひとつなのです。価値観をつくりだすキーワードなのです。
これは、重要なことです。
20世紀の日本で生まれた、アニメ・コミック文化は、「萌え」という新たな価値体系を形成する概念を生み出してしまったのです。「萌え」を知った人類は、今後、「萌え」という尺度を捨てることはできないでしょう。
「人生とは『萌え』ることと見つけたり」といった人生観を持つ人々も増えはじめるはずです。
しかし、世の中には、「萌え? なんだ、そりゃ。そんな作りものに夢中になる暇があったら、生身の女と付き合え」という無粋な人々も多いでしょう。「萌え」の求道者にとっては、迫害以外の何物でもありません。
アーサー・C・クラークの小説に「地球幼年期の終わり」という作品があります。これは、人類が、ある世代において種として新たなステージに進む、進化と断絶の物語です。新人類は旧人類にとっては理解不能の存在なのです。
同様に、「萌え」を知った人々と、「萌え」られない人々とは、相互の価値体系を交換することができず、おそらくは深刻な断絶をみることになるでしょう。
しかし、絶望するのには早すぎます。
概念そのものは共有できなくとも、人々は確実に萌えているからです。
たとえば、史上稀に見る高支持率を得ている小泉内閣は、政策うんぬんではなく、小泉首相のキャラクターへの「萌え」で維持されていると言えるのではないでしょうか?
そうでないならば、どうして「キャラクター商品」が売られるのか? メールマガジンが莫大な数の読者を得たのも、「小泉キャラ」の「ちょっといいハナシ」を欲するファン心理のなせる技という気がします。それは、お気に入りの美少女キャラのおしゃべりCDを買い求めるファン心理と、本質的には違いません。
つまり、小泉支持者は、自分たちでも気づかないうちに、「萌え」てしまっているのです。
他にも、「本来の用途とは違うところで人気が出てしまっているモノやヒト」は、人々が知らないうちに「萌え」対象になっている可能性があるのです。それを、アニメやゲームのユーザーは、いちはやく「萌え」という概念でくくってしまっただけなのです。
「萌え」は、日本を席巻し、そして、いつかは世界にも広がっていくことでしょう。
「萌え」を制する者は、世界を制するのです、いつか、きっと。